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嘘と仮病

中学校には「来室カード」というものがある。
保健室を利用するときに、教科担任のサインを貰って来室するものだ。
この目的は所在確認や、保健室が溜まり場となることを防止するためにある。


ある日生徒が来室カードを持って保健室にやってきた。
教科担任のサイン欄にはサインがあったが、明らかな偽書だった。

「これ、◯◯先生が書いたんじゃないよね?」

指摘すると誤魔化す。

「さすがに先生は自分の名前の漢字を間違えないよ」

今度は黙る。

「先生に言いにくいなら、私が代わりに言うよ。でも嘘はやめて。頭痛とか腹痛とか、本当に痛い時に信用されないのつらいでしょ。」
「私も疑いたくないんだよ。」

ようやく認めてくれた。


実は仮病もなんとなくわかる。
確実ではないし確認もしないから、本当になんとなくだけど。
救急車や病院に行くような仮病を訴えられたら正直困るが、休みたい・帰りたいが目的でたまに訴えるくらいなら別にいいかとも思う。
だから子どもがどうしたいのかは必ず聞くし、不安やストレス等の気持ちの面が大きいようなら「帰ってもスッキリしないかもしれないよ。話してくれれば力になれるかも。」と相談することを提案する。


昔の私は子どもの嘘や仮病を許せなかった。

試されている気がしたし、誤った判断に繋がるし、甘えだと思っていたから。
でも今は何か事情があるかもしれない、と思う。

私との人間関係ができていないかもしれない。

病気と称することで、優しくされたいのかもしれない。

夕方以降だとゆっくり一人で休めないから、日中早く帰って休みたいのかもしれない。

学校のトイレが使えないのかもしれない。

クラスへの居辛さや勉強の不安等を考えると、本当に体調が悪くなるのかもしれない。


子どもの話を全部受け入れるわけでもなく、
身体症状だけを診るわけでもなく、
関係を深める一つの過程だと思っている。

理想を言えば、言葉に責任が伴うことを学ぶ機会にしたいけど、なかなか難しい。


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