普通であることの勇気
「普通」の定義について前回書いて、結局実態のないものということはわかりました。
普通って?
大多数、ほとんどの人が当てはまること…
「嫌われる勇気」でおなじみのアドラーは、【普通であることの勇気】を唱えました。
○普通であることの勇気
繰り返しになりますが、「普通」には実態がありません。
わかりやすく基準があるのではなく、誰もが"なんとなく"で判断します。
「普通だな」と。
アドラーが唱えた【普通であることの勇気】は、そんな大多数にいる自分をそのまま受け入れましょう、というメッセージです。
これは、
・特別ではない
・何者でもない
このありのままの自分を良しとして生きましょう、という意味です。
だから、平均的な人間であり続けよ、という意味ではないですし、
普通を目指せ、世の中に普通を求めよ、ということでもありません。
【普通であることの勇気】は、
「特別に良くなろうとしなくていい」
逆に
「特別に悪くなろうとしなくていい」
つまり
「特別な何者かになろうとしなくていい」
というメッセージです。
そのままのあなたでいい、という大きなエールなのです。
○何者でなくても
そもそも、最初に「何者でもない自分」を認めるのは勇気がいります。
誰だって、誰かの特別でありたいし、特別な何者かになりたいのです。
しかしながら、アドラーはおそらく、「特別だから自分には価値がある」という思考回路を良くないことと考えていたのでしょう。
なぜならば、特別かどうかは関係なく「人は存在だけですでに大きな価値がある」と考えていたからです。
自分に価値を感じるのは、特別な時だけ。
いい成績を残したとか、すばらしい発明をしたとか、賞を獲ったとか、何か誇らしく感じた時のみ。
そうであってはいけないんですよ!と。
だってあなたの存在自体に価値があるのですから。そして、それが他者に貢献しているのですよ、と。
だから、何者でなくても特別でなくても、そんなこと関係ないのです。
○特別でなくても
結局、【普通であることの勇気】は、自己も他者も受容する考え方に着地します。
他者も「特別であるから価値を認める」のではなく、「特別でなくても価値を認める」のです。
理由は「存在そのものに価値があるから」
これは、私もあなたも同じなのです。
私は何とか年月をかけて、この考え方を徐々にインストールできるようになってきました。
大失敗した後、自責の念に駆られても、「失敗したから私に価値がない」のではく、
「私は特別優れていなくても、存在に価値があるのだ」と言い聞かせることによって、極端な落ち込みを避けられます。失敗は誰でもする、普通のことだと言い聞かせたり。
また一方で「ナンダ?この人は??」と思うような出会いがあっても、
「この人が生きているこの存在だけで、他者貢献してるんだもんなー」と思うと、
他者を攻撃しようと思わなくなるし、どんな存在も、受け入れられるようになりました。
【普通であることの勇気】は、自己も他者も受容する愛につながるようです。
本当にありがとうございます😊嬉しくて小躍り!!💖