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先生のところにずっといるよ@町医者エッセイ

武さんは、医師である私を最も信頼してくれた患者さんの一人だと信じています。
信頼されると、信頼でお返しするもの。私に全幅の信頼をおいてくださった武さんに、私はいつも全力で対応しました。
 
ある時、武さんが入院しました。腸閉塞。重篤でした。本来であれば手術を考慮すべき状態でしたが、如何せん武さんは手術に耐えられそうにありませんでした。超高齢男性で、心臓も弱かったからです。そこで、手術抜きで点滴など内科的治療を優先しました。
しかしながら状況は好転しません。このままでは死んでしまうと焦りました。何が何でも助けたかった私は、もはや冷静ではいられませんでした。なぜならば相手は武さん。私を全面的に信頼してくれる武さんに、私は医師として最大級のことをしなければいけないと思っていたからです。医師が患者さんにしてあげる最大のこと、それは病気を治すこと、なんとかしたいと頭を捻らせました。残された道は、リスクを覚悟で一か八か手術しかありませんでした。武さんに伝えました。
 
 「(大病院への)転院も、手術も受けないよ。先生のところにずっといる」
 
手術を選択しなければ、あとは死を待つのみというのは医師である私には明らかでしたから、私は武さんの答えに困惑しました。翻って武さんに悲壮感はまるでありませんでした。むしろ穏やかな中に覚悟を決めた男の強さを感じる表情でした。お迎えが来そうなことを気づいていたのかもしれません。
このやり取りから数日後、武さんは静かに私の下から旅立ちました。
私は寂しさ以上に悔しさで一杯でした。リスクは大きかったとしても治るかもしれない方法をとれずに死に至ったからです。そこで、臨終確認後、ご家族に私の力不足をお詫びしました。
 
 「(武さんは)幸せだったと思う。大好きな先生、大好きな病院で死ねたのだから」
 
救われた気持ちでしたが、やはり私は複雑でした。私は医師なので患者さんを治してなんぼだと思っていますし、だから武さんに手術の説得をしきれなかったこと、そして治せなかったことが悔しかったのです。一方で、どこか満足している自分もいました。大好きな患者さんを自分の手で見送ることができたことに。医師としは敗北も、伴走者としては満足、こんな不謹慎な矛盾は許されるのかと複雑でなりませんでした。
 
誤解を恐れず書けば、武さんは死ぬことを受け止め、最期は私に看取って欲しいと願っていたのかもしれません。私も本音では同感でした。他の医師に命を委ねることなく私の手で見届けたいなと。
 
「患者中心の医療」という言葉、あちこちで耳にしますが、私はどうにも苦手な言葉です。患者さんが大切であることはもちろんですが、その患者さんの幸福を願う家族や医療者の思いはどこに行ってしまうのだろうと。
私のもとから離れないことを願った武さん、看取って差し上げたいと願った私。武さんと私の思いが最期は結び合い一つの形となったこと。患者中心の医療ではなく、強いて表現すれば、信頼という関係性の下の「関係性中心の医療」とでも言えますでしょうか。武さんと歩んだ晩年の日々は、患者中心とは程遠かったかもしれず、私の思いも多分に入っていました。一つだけ言えることは、武さんとの縁、そして物語は私にはかけがえのない宝物であるということです。
 

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