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どこから来て どこへ行くのか

小太郎はまた少し別の地域に移動したようです

もう階段にフードを置くのをやめました

9日間食べに来なくて
私なりに決めていた最後にする日の10日めに
別の首輪なしの犬…それも2頭が現れて
その2頭の様子がなんだか夢のようで…
別のカメラで撮られた道路での様子も
なんか物語の一場面のような感じがしたんです
元日の朝だった事もその感情に彩りを添えています

小太郎よりも大きな中型犬が2頭
親子でしょうか兄弟でしょうか瓜二つの2頭
そんな2頭がまだ明けきらない暗い早朝に
どこからかやって来て
躊躇なく階段にあるフードをみつけて食べ始め
道路と階段をかわりばんこに行ったり来たり
フードを綺麗に食べ終えたら
来たのとは別の方へと
仲良く舞うように走り去って行きました

私は〝見て見ぬふり〟を選びました


保護犬と保護猫を迎え入れ
一緒に暮らしている事を話すと
ほとんどの方が〝えらいね〟〝優しいね〟
犬猫に対しては〝幸せになれたね〟
と言ってくださいます
そう言っていただけるのは
もちろん嬉しい事だと思っています

でも今回の小太郎との関わりの中で考えたのは
彼らは本当に幸せなのかなという事

私はいつも犬猫に対して
〝幸せになれたね〟と言ってくださる方には
〝幸せになったのは私ですよ〟と言っています
それは初めて保護犬ごん太を迎えた時から
ずっと思っています

幸せになったのは私
ごん太やカン太やマロたちの気持ちはわからない
わかるはずがない

表情や顔つきが変わった事が幸せの証なのか
お腹を見せて寝転がっているから安心しているのか
車との事故に遭う事なく守られているから良いのか
寝る場所と食べる事の心配がないから幸せなのか

住宅街の路上を自由気ままに闊歩していた
犬や猫やハクビシンたちを
防犯カメラの映像で見て来た数ヶ月
野山で目にするのとは違った感情
ここで生きて暮らしているのは
人間さまだけではないって事

少し昔には野良犬が町をうろうろし
野良猫が路上や塀の上で日向ぼっこをしていました
そんな町の方が当たり前なんじゃないかと…

もちろん保護活動をしている方々を
非難する訳ではありません
〝殺処分〟されていく犬や猫たち
虐待の標的になる彼らを一匹でも助けたい
自身の時間やお金を費やして活動をしている人たち
なかなかできる事ではありません

ペットショップで買わないで…
その前にちょっとそういう犬猫たちがいる事を
知って欲しい
彼らはオモチャでもアクセサリーでもないんです

最期の9ヶ月を私と過ごした小型犬の銀ちゃん
おそらく彼は〝商品〟になりそこねて
狭いケージの中だけで10年近く
生かされていたようです
そんな銀ちゃんの事を想うと
小太郎に〝いいよ〟って言いたくなります
〝好きに生きたらいいよ〟って

寒かろう
ひもじかろう
事故に遭わないか
病気やケガをしたらどうする…
…それを心配するのも愛情

でも彼らが自分の運命に従って生きるのを
そんなに柔じゃないよねって
見守るのも愛情なんじゃないかと思います


間違ってるかも知れない…

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