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自己表現って恥を越えることなんですよ

大好きな自己表現について少し。今日の昼下がりになんとなく思ったことです。「恥ずかしい、そう、自己表現って恥ずいんだよなー。恥じらいの感情をどれだけ超えられるのかみたいなところに表現力が出てくるというか…」

と、ぶつぶつ言いながらコンビニに向かって歩いていました。(もちろん人が歩いてたら独り言は言いません)


分かりやすく自己表現の一つである動画に関して言うと、よくある100日後に〇〇するというテンプレートあるじゃないですか。あれも、みてる側はもうそろそろ、またこういうやつか〜って思ってる頃かもしれないですが、そう思ってしまうほどに、ショート動画で自分の挑戦や失敗の経験をリアルタイムで表現している人がたくさんいるって、凄いことだと私は思います。

自分に置き換えて考えてみて欲しいのですが、100日後に〇〇するというテンプレで何かやってみてくださいと宿題を出されたら皆さんは何をしますか?

これを考える時、きっと「何なら成功できるか」という考えに無意識になっている人が多いと思います。私も、どうせ人に見せるんだったら、見応えのあるものがいいとか、ちゃんと成功して拍手が起こるようなものがいいと、思ってしまいます。

でも成功できるかどうかに重きをおかず、今自分がどうしてもやってみたいことを考えてみると、きっとまた違う答えが出てくるはずです。休日に楽しめるようなちょっとした趣味が欲しいとか、お酒に合うおつまみ的なものを作れるようになりたいなとか、そういう、こんな動画を作ったとして誰が見るのかな?なんて思ってしまうような、そんなことも思い浮かぶと思います。

けれど本来自己表現って、そういう外の価値観に晒されることを考えることなく自由にやってみることだと思うんですね。その延長線上に、ショート動画というツールを使って表現している人もいるというだけで。

自分だけで味わっていた恥じらいを超えていくことが、自己表現の醍醐味だと私は思っています。別に、全世界に発信する必要はないのだけれど。自分なりのやり方で魅せる、ということです。

どうしても、表現という域の話になると、私にはそういうものがないとか、別に特別好きなものがないという声も聞こえてくるのですが、自己表現って自分が楽しむためのもので、個性の有無とは関係のないものだと思っています。

SNSが普及した現代では表現の仕方が偏っているから、皆特別な個性があるように見えるだけで、家の中や、友達の前や、旅先ではそれぞれ違う”自分”にみなさん出会っているはずです。そして、その自分に戸惑いながらも、自己を表現しながら生きているのです。


私はと言えば、昔から「絶対これはやりたくない」と思うことが、「絶対これやりたい」と思うことよりも遥かに多い人間でした。けれど、そんな価値観1本だけではもちろん社会に立ち向かうことがでず、幾度となく、何故自分の感性に正直に生きることが、たったそれだけのことが許されないのだろうと思っていました。

今なら、その理由はよくわかるのです。「絶対これはやりたくない」という想いを表現せず、やりたくないことに対しての”無視”という行為でしか向き合っていなかったからです。

やりたくないのであれば、じゃあ自分はどんなやり方ならするのか、それが嫌なら何が好きがなのか、そう言ったところまで深く考えていなかったし、そこらへんの思考を放棄していました。

そして今、何も偉い人間ではないのですが、みなさんから質問や悩み相談を受けるようになりました。そんな今思うことは、心の内のそれ、もっと見せてよってことです。というかもっと色んなところで曝け出していいんだよ、と。

自信があるとかないとか、まだ言いたいことがまとまっていないとか、そんなこと全部、実は自己表現において関係ないんですよね。だって、それが今の自分なのだから。

私と同じように動画を作ったりしている人がいたら、もっともっと、見せられないと思っている感情を表に出していけば良いし、外で自分を取り繕うことに疲れてしまった人がいたら、あーもうやーめたって辞めればいいのです。そして、考えるのです、自分はどんな自分でいたいのかということを。


そして、恥じらいを超え、人の視線を浴び、言葉を受け、
表現という空気に解放し、生きていくのです。






p.s 口角が切れて痛いのでビタミン不足だと思い、なんとか今日コンビニで調達し摂取してみました。




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