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5月を生きる私へ

“私”を客観視しながら、私がいつも見つめているみんなの元へ..

私たちは一体いつから、五月病を恐れるようになったのだろうか。

五月にSNSでショート動画を見れば、五本に一本くらいは、五月病について誰かが話している。

「仕方ない」

そんな言葉が、頭に舞い込んでくる。

「仕方ない」

随分と前に過去をそう捉えることに決めた私の頭に木霊する。

「仕方ない」

私から、みんなに、この言葉の活用方法が伝えられる。

「どうせ」
「私なんて」
「なんで」
「あいつは」
「誰も」
「認めてくれない」
「甘えだって」
「わかってるけど」
「こんなに」
「頑張ってるのに」
「こんな私が」
「一番悪いよ」
「ごめんね」

そんな言葉が、蠢く。

「仕方ない」

彼女、彼らにはこの言葉はきっと届かない。

いや、届かないようにしているのだ。

「ごめんなさい」

そう言いながら、どんな前向きな言葉も受け取らない。


私はそんな彼女、彼らの気持ちをよく知っている。
いっそのこと、劣悪な環境で努力家な自分でいることで得られる価値を貪りたかった。

劣悪という環境を丹精を込めて手作りしながら。

「14歳中学生です」

ある日、中学生からメッセージが来た。

「どうすればいいですか?」

そう問われた。
彼女の人生について。

「親が毒親です」
「家から逃げたいです」
「でも学校あるのでどうしたらいいですか?」
「住むところはどうやって見つけたらいいですか?」
「あと、お金のこともどうやって稼いだらいいか教えてください」

彼女はたくさんの問いを並べ、一日経って私からの連絡が無いとフォローを外した。


これは、彼女だけではなく、実は毎日のように届くメッセージで一番多い内容なのだ。

これを見ている大人は、今はそんなことを他人に聞けていいねと思うかもしれません。

私は?

私は、これを見てどう思ったのだろうか。

この中学生が別のアカウントで同じようなメッセージを最初に送ってきていたことも知っていた。そして、フォローしなきゃメッセージは返ってこないかぁ、と、渋々作った捨て垢で、私だけをフォローし、メッセージを送ってきたことも。

そして、そういう人は皆、「助けてください」と言いながら、私を踏み付け、使い捨てていくことも、知っていた。

私は、

私は、彼女たちを眺めながら、何を思っていた?

同じ結末をただ呆然と待ちながら、何を考えていた?

「私の言葉は響かない」

きっと、そう思っていた。

スマートフォンの画面には収まりきらないほどの長文が届く。

「どうしたらいいと思いますか?」

中学生のあの子と同じような文章が、私の元へ届く。
私は、こうして再度、人の人生について真剣に考える。

そして、風呂に浸かっているかのように、天を仰ぎ、目を瞑る。過去の私はどうしていたのかとか、どうしたらいいと思うだろうかとか、今の自分は何故こう考えるのか、とか。

思考の風呂から出たら、言葉を紡いでいく。

「私は、こう思います」と。

あなたの人生に介入しながら。

私は、こう思う。
そう言いながら、
私は、本当は何を思っていた?

きっと、期待をしていたんだ。

同じような結末を迎えない、未来を。


数日後、返信が来る。

メッセージを開かなくても分かってしまう。
だいたいどんなことが書かれているか。


私は友人にLINEで相談をしたら、その返事をその日にする。
何故なら、私が相談をしたから。

つまり、私は、
そういうことなのだ。

それは、至極当然のことなのかもしれない。
他人と簡単に繋がることのできるSNSだからこその、軽さというものがあるのかもしれない。

そして、私はそこで、言葉を発信している。

その受け取り方としては、もしかすると、当然と言えるのかもしれない。


そうして、使い捨てられることに嫌気が差し、長ったらしい言葉を画面に打つことがある。「認めてほしい」とかそういう、力強いものではなく、暗闇の中で、雨に濡れた泥道を歩いているようなそんな悲しみを抱えて。

きっと、この道をこれからも何度も往復するのだろうと思う。
バズや、衰退や停滞などを経験しながら。

そんな時、ひとりで、ゆっくりと、泥沼にハマった両足を取り出したい。

「どうせ」

などという言葉を吐き出さず、
ただ、ゆっくりと。

それが人間だと知っていたじゃないかと、過去の自分を責めないように、
せめてこうして欲しいと他人に要求しないように。

ただ、今の自分として、出来事を受け入れながら。


書いている言葉よりも、キーボードを叩く音だけに集中するように。



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