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僕には与えられなかったもの

僕は、物心ついた頃から、母親の顔色を伺って生きていた。
母親の機嫌が悪い時は、小さな僕の身体がぶっ飛ぶくらい殴られた。
母親はぶっ飛んだ僕の胸ぐらを掴み僕を起こすと、何発も殴り蹴り上げた。
機嫌が悪い理由は、当然僕では無い。
僕の父親の稼ぎが悪い事や、近所での母親への噂話。
抵抗すればもっと殴られると思った僕は、母親の気が済むまで殴られ、口汚く罵られた。

これが普通の家庭だと思っていた。

成長と共に殴られる回数は減っていったが、何かと罵られる事が逆に増えていった。

僕は気付かなかったが、周りの大人が随分庇ってくれていたらしい。
その結果中学、高校と僕は保健室組だった。
僕の顔の傷、発言に何かを感じたらしい。

本来なら児相案件だが、僕は小学校の頃から大学に行きたかった。
現在高校は無償化されているが、僕の頃は中学を卒業すると施設を出て働くしかなかった。
だから、母親から離れている学校内では、保護されていたのだろう。
何とか高校までは卒業させようと、守られていたんだろうと思う。

無事、大学に進学し、やっと学ぶ楽しさや解放感を知った。
母親は相変わらずだったが、ほとんど手を上げなくなった。
僕を罵りたくても、僕が次々論破するようになり、関わりが薄くなっていった。
「お前の父親は、大学すら出ていない能無しだ」と言う母親も大学中退。
僕が持っている学位「学士」すら持って無い。
父親と同じく高卒で、学歴も無く、若いひよっこに論破される程度の事しか言えない無能な愚か者と母親の事を認識出来た時、「僕はコイツに勝った」と思った。

しかし、長年の母親からの洗脳はなかなか解けな無かった。
母親と離れて暮らして何年も経つが、母親からの愚痴電話に何時間も付き合ってしまったり、僕の悪口、僕の相方ヘの悪口を真に受けてしまったりしていた。

洗脳が解けつつある今、電話口で母親がわめき散らし始めると、「うるさい」と電話を切れるようになった。
初めて電話を切った後正直怖かったが、同時にそれが出来た自分にも驚いていた。

ただ、今現在、僕を苦しめ始めている事がある。

僕は生まれてからこの歳まで、誰の1等賞にもなった事が無い事に気付いてしまった。

子供が生まれたら、無条件で両親の1等賞になるのであろうが、僕の母親のように1等賞を気が済むまで殴り罵る事はしないだろう。

僕は、1等賞を知らない。

相方は、時々僕を二の次に扱う時がある。
やはり、1等賞ではないのだろう。

僕はこれから誰の1等賞にもなれず人生を終えるのかと思うと、やはり寂しい。


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