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【映画評】 エレム・クリモフ『炎 628』 #FreePalestine

エレム・クリモフ『炎 628』(1985)

ソ連崩壊が1991年。本作製作はその6年前である。ソ連社会がそれなりに機能しながらもどこか怪しく揺れることを自覚していた、そんな時期に製作されたのが『炎 628』。

タイトルの数字「628」はナチスが焼尽した村の数である。この映画がソ連の反ナチス・プロパガンダであるか否かは問わないことにして、戦争の実相とはこのような地上の情景であると推察できる。上空から撮られた戦争は全てフィクションであり、戦争の実相は地上でしか描写できない。そう極論してもあながち間違いではない。

預言者としての村長ユスチン(カジミール・ラベッキー)、妖精・天使としての娘グラーシャ(オリガ・ミローノフ)、ユスチンとグラーシャの間を揺れ動く少年フリョーラ(アリョーシャ・クラフチェンコ)。
大地深く埋められた銃。フリョーラは銃を掘り起こそうとする。村長ユスチンはそれを非難するが、フリョーラは聞き入れず、掘り起こした銃を持ちパルチザンに加わる。

映画冒頭から絶え間なく大地の神話性のような様相が漂い、カメラは終始大地を這うように登場人物を捉える。そこには無残な屍の山があり、泥沼があり、ナチスが侵攻する車群の地響きが轟く。その地響きは村の小屋に押し込められた村人を焼尽する炎の轟へと変わり、炎は村人の悲鳴とともに上空へと舞い上がる。

すべては大地と連結する。終盤の逆回し、爆弾が空から地上へと落下するのではなく、地上から爆撃機へと上昇するフィルムの逆回し。これも大地でしか戦争は語れないということではないのか。時間の遡行によるヒトラーの幼年期の素顔の表象などでは決してない。時間の遡行に対し、水たまりに浮かぶヒトラーのポスターに弾を一発ずつ打ち込むフリョーラの表情には、老人のように深い皺が刻み込まれる。

歴史は繰り返す。一度目は「悲劇」として、二度目は「喜劇」として。いや、レトリックはやめよう。どちらも「悲劇」である。
本稿をアップした今日は5月15日「ナクバの日」、パレスチナ人受難の日だ。
ガザを想いながら……。
#FreePalestine

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

エルム・クリモフ『炎 628』予告編


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