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【映画評】 白石晃士『ある優しき殺人者の記録』 狂気と救済のフェイクドキュメンタリー

白石晃士『ある優しき殺人者の記録』(2014)

白石晃士監督作品の暴力、それは映画のフレームの向こう側の暴力ではない。作品を見る者の眼前の、手の触れるところにある暴力、あるいは、作品を見る者自身の暴力としてあり得る。上映が終了し館内の明かりが灯されたからといって、決して安泰としてはいられない。それ故、白石晃士作品は厄介極まりない。作品の情況が厄介であるに反し、ストーリーの骨子はシンプルである。

韓国の障害者施設から脱走し、18人を惨殺した容疑で指名手配されているサンジュン(ヨン・ジュウク)。女性ジャーナリストのソヨン(キム・コッピ)は、彼から「独占取材してくれ」と電話を受けた。彼女は日本人カメラマン田代(白石晃士)を連れインタビュー収録に臨む。電話で誘導される2人。辿り着いたのは廃屋となったマンションの密室502号室。部屋にはサンジュンがいた。ソヨンと田代は、これから起きる全てを記録し、「なにがあってもカメラを止めるな。止めたら殺す」と脅される。サンジュンは何故ソヨンを指名したのか、そしてなぜ18人もの人を殺害したのか。サンジュンは事件の真相を次第に告白していく。

障害者施設に入所しているサンジュンは、ある日、労働争議の記事を目にした。そこには工場側敗訴、労働者勝利の記録が書かれていた。マスコミが無視した争議だったのだが、この事件をあえて取り上げたジャーナリストに、サンジュンは気を引かれた。サンジュンにとり、気骨のあるジャーナリストに思えた。記事にはジャーナリストのポートレートが掲載されていた。それは、サンジュンの幼馴染であるソヨンであった。2人は子供の頃の仲良しであった。それは懐かしいという想いとともに、ある事件を呼び起こすことでもあった。

サンジュンは記事に目を通す。記事の中に一つのメッセージを読み解いた。文字列の一番左の文字を縦につなげると、「27人殺せばコンジンは蘇る」と読めた。コンジンとは、ソヨンとサンジュンのもう一人の幼馴染であった。

幼年時代のある日の夕方、道路で遊んでいた3人に1台の車が突っ込み、コンジンは命を落とした。その時、彼らの遊ぶ様子がホームビデオとして撮られていたのだが、コンジンの死の記録も克明に写っていた。サンジュンは悲しさのあまり、このビデオを最後まで見ることができなかった。ビデオを埋葬すべく、空き地に埋めに行くのだが、サンジュンは、その時から神の声を聞くようになった。そのことが原因で、サンジュンは障害者施設に入れられることになった。サンジュンがソヨンの書いた記事を目にしたのは、27歳の時だった。そして、その記事から、メッセージ「27人殺せばコンジンは蘇る」を読み取り、それは彼にとり、神の声でもあった。サンジュンは脱走し、幼馴染のコンジンを蘇らせるべく惨殺を実行することにした。

サンジョンは18人を惨殺した容疑で指名手配された。サンジョンは最後の殺人を記録させるべく、ソヨンに電話をした。彼にとり、正しく記録できるジャーナリストはソヨンを措いていないのだ。密室に誘導されたソヨンは彼に惨殺の真偽を糾すのだが、彼は、殺したのは18人ではなく25人だと告げた。最後の2人の日本人が、いまから部屋にやってくるとも。そして、その2人を殺せば27人殺したことになり、コンジンが蘇るという。その一部始終をカメラに記録するのが田代の役割なのである。ソヨンは、記事から読み取ったメッセージは単なる偶然と妄想であり、神の声ではないとサンジュンに諭すのだが、彼は聞き入れようとはしない。サンジュンは、これからやってくる日本人の首の裏にはアザがあるとも言う。そのことも、メセージとして記事に書かれており、これも神の声なのだという。やがて何も知らな2人の日本人カップル・ツカサ(葵つかさ)と凌太(米村亮太朗)が現れ、「殺戮/抵抗」の残虐なシーンが繰り広げられる。その結果、カメラマンの田代を含め、3人の日本人は命を落とすことになる。そしてソヨンもサンジュンも瀕死の傷を負う。ところが、この中で奇妙なことが判明する。2人の日本人の首の裏にはアザがあるはずなのに、調べるとないのである。アザがあるのは、ソヨンとサンジュンなのだった。殺されるべきは、2人の日本人ではなく、ソヨンとサンジュンだったのだ。瀕死の2人はカメラを持ち、ビルの屋上まで這い上がる。そしてソヨンは息絶え、カメラを手にしたサンジュンは屋上から落下するのではと思うほどに息絶え絶えにソウルの街を呆然と見つめる。すると、雲が激しく蠢き始め、そこから触手のようなものが現れ、サンジュンは捕らえられる。その後は奇跡のような事態が短く展開し、映画はスピーディーに終わる。

ストーリーの骨子という、即物的な言語の連なりでは、白石晃士の世界は立ち現れてはこない。いや、骨子でなくても、彼の作品を記述する言語記法はあるのだろうか。筆舌に尽くしがたいとは白石ワールドのことではないだろうか。白石メソッド炸裂ともいえる本作。終盤に至るまでの密室活劇は、直視できないほどの殺戮シーンと暴力的な性表現に満たされ、映像は監督のためにあるのだと言っても過言ではない。『ある優しき殺人者の記録』を見ながら、言語の表現領域と映像の表現領域の違いを思わずにはいられなかった。そして、サンジュンの脅しにもあるように、なにがあってもカメラを止めることはできない。カメラを止めることは、殺されるということである。密室の惨劇を、一部始終ビデオに止めた映像。田代が殺害された後も、カメラはサンジュンに引き継がれる。映画のコピーにあるように、終盤の奇跡のような事態までカメラを止めることのない「86分ワンカット」で撮影されている……ただし、何度かカメラが床に置かれ、その時に何らかの映像細工が為されているのかもしれないのだが...…。

終盤の奇跡のような事態についてなのだが、サンジュンが雲から現れる触手に捕らえられると突然、カメラはソウルの繁華街の路面を映し出す。実は、触手に捕らえられ空から落下してきたのはサンジュンではなく、カメラなのである。若い男の顔のアップとなり、それはカメラのレンズを覗き込むサンジュンである。サンジュンは幼馴染のソヨンとコンジンと共に、夜の繁華街に繰り出してきているのだ。死により、コンジンだけでなく、サンジュンとソヨンも蘇ったのか。それとも、86分間の惨劇は夢だったのか。いや、そのようなことはあまり意味のあることではない。狂気と救済が問題なのである。人は、狂気と接することでしか救済を求めることはできないのか。救済とは、自己と世界との関係のことなのだが、わたしたちは、世界を正しく認識することはできるのか。そして、白石晃士が、この作品を、何故に韓国で撮ったのか。コンジンの救済のため、何故、3人の日本人の殺戮を必要としたのか。そこには、歴史認識に関する日韓の相違を見ることも可能なのだが、たとえそのことを白石晃士に問うてみても、はぐらかされるに決まっている。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

白石晃士『ある優しき殺人者の記録』予告編


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