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【映画評】 アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』。二階堂ふみの言葉に興味がひかれた。

わたしたちは映画から何を読み取ろうとしているのだろう。物語、構造、ショット、眼差、音声、政治性、世界の意味……。

映画は、エンドマークへとただひたすら時間を経過させる一方的なベクトルを有しており、観る者はその時間に抗うことはできない。
エンドマークとは物語の終焉とは限らず、映画館の照明が点灯するとりあえずの終わりの印に過ぎない。始まりからエンドマークの限られた時間内の瞬間を、眼と音の記憶として脳裏に留めるしかわたしには術がない。

なにゆえわたしはこんなことを思ったのかといえば、アレクセイ・ゲルマン監督『神々のたそがれ』(2013)は難解であるからだ。

難解とは、作品から読み取ったそれぞれの断片が破片のようにあるだけで、それらさまざまな様相をひとつの構造体として結晶化させられないからだ。「800年遅れた惑星」ということ、その惑星アルカナルが「ルネッサンス風の都市」であるということ、地球から惑星に「学者が派遣された」ということ、「賢者狩り」が行われ絞首刑に処せられたということ、等々。これらはナレーションや映像により確認できる。惑星ということからSF作品であること、賢者狩りと処刑から専制国家であることも理解できる。だが、エンドマークへと向かう3時間、そこに呈示されるショットは魅力に溢れているのだけれど、やはり作品総体の構造に、わたしの中で結実を拒むほどの難解さを感じるのだ。だからといってこの作品に統一感がないというわけではない。しかし、とりわけ、物語の流れは映画ホームページの解説なくして、少なくともわたしには理解できない。

批評誌ユリイカ2015年4月号を読んでいたら、女優・二階堂ふみのインタビューに興味をひかれた。
「パンフレットを読むことによってわかる作品というのは、作品としてどうなんだろうという気持ちがあるんです。映画だったら、映画のなかで完結させなければいけないと思うんですよ。……(途中略)…… やっぱり昔は、スクリーンの中だけで完結させる潔さがあったような気がするんです」。

この号のユリイカは特集《高峰秀子》。女優・高峰秀子をはじめとして、昭和を代表する女優には、「説明のいらない良さがある」と語る二階堂ふみへの、踏み込んだ質問への彼女の回答が、先に引用した発言である。これは俳優論であり、映画製作そのものへの言及ではないから、わたしの理解力のなさを二階堂ふみのインタビューで代弁させようとしているのではない。わたしが興味をひいたのは、「映画のなかで完結させなければいけない」という言説である。

映画のなかで完結させるということは、撮られた作品の中で読みとれということであり、映画とはそれ以上でも以下でもないとう、ロラン・バルトのテクスト理論にも通じる二階堂ふみの言説である。映画を観るわたしは、そのことを映画製作者、たとえば監督に期待することもできるのだが、観るわたしも、「スクリーンの中だけで完結させる潔さ」を持たなければと思ったのである。この場合、「スクリーンの中だけ」という範疇は、映画を観る者の、これまで生きてきた時間、つまり、「スクリーンの外」の関連でそれぞれ異なることは言うまでもない。

アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』-3

『神々のたそがれ』が完成を見たのは2013年だが、ゲルマンが本作品の原作であるストルガツキー兄弟の小説『神様はつらいよ』(1964)の映画化を思い立ったのは1968年である。この年のわたしは10代半ば。よく覚えているのだが、ソ連によるチェコへの軍事介入(いわゆるチェコ事件)があった年だ。

学校での歴史の授業の影響もあるのかもしれないのだが、その頃のわたしはソ連ファンだった。もちろん浅い知識でのファンに過ぎないのだが、アメリカ流の資本主義に違和感を抱くわたしには、ソ連の農村共同体にユートピアを抱き、それら社会体制に未来を見出していたのだ。そんな中でのソ連によるチェコへの軍事介入は衝撃的だった。学校の昼休みの屋上で、ソ連に絶望したと友人に吐露したことを覚えている。若さほとばしる、感傷過多の青臭い想いに過ぎないけれど、深さは違うものの、ゲルマンの眼差しとわたしの眼差しは交差している、といえば愚か者と叱責を受けるだろうか。

愚かを承知で呟くならば、交差する眼差しが共有するものといえば、暴力と汚辱が支配するおぞましい世界である。そのような世界に論理も感性もない。人間の排泄物と臓物に汚辱された世界があるだけで、論理的な説明も感性も脈絡もない映像が、世界を分裂として表象しているだけである。

本作品では語りの主体(=視線)も分裂している。語ろうとする主体はこの惑星に地球か送られてきた観察者ドン・ルマータなのか、それとも登場人物がしばしばカメラに向かって、つまり観客に向かって短い言葉を投げかけるように、映画を観る者の視線に語りの主体を要請しているのか。もしかすると、このような語りの主体の分裂そのものが、この作品の呈示しようとするものかもしれない。そのような意味では、ゲルマンの提示する映像は、極めてシンプルである。このシンプルさを背後から支えるのは、アンドレ・タルコフスキー『ストーカー』(1979)の水のイメージと、アレクサンドル・ソクーロフ『日陽はしずかに発酵し』(1988)の落下するイメージである。ただし、『ストーカー』の静謐な水ではなく汚辱された水であり、『日陽はしずかに発酵し』の荒涼とした中央アジアへの落下ではなく混沌とした時間への落下である。ゲルマンはその両者を、視線(=語り)の分裂により急進化させようとしたのである。

分裂そのものをSFと名づけてみてもいい。これがわたしなりの「映画のなかで完結させる」ことの、『神々のたそがれ』へのとりあえずの返答である。

(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)

アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』トレーラー


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