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【映画評】 きょうとシネマクラブ「女性と映画」特集 アイダ・ルピノ『青春がいっぱい』

きょうとシネマクラブ「女性と映画」特集・第2回上映作品
アイダ・ルピノ『青春がいっぱい』(1966)

モノクロ映像によるホテルの小さな部屋。白い壁と白いベットシーツ、そしてベッドにはひとりの金髪の女がおり、窓ガラスから入り込む街灯の光が部屋という閉空間を怪しく映し出している。窓ガラスに打ちつけ流れ落ちる雨粒を部屋に入り込む光が壁面に映し出し、女の顔にも光としての雨粒が流れる。フィルム・ノワールとして部屋を変容させる雨粒であり、このときの女の表情はまさしくフィルム・ノワールだった。

これは『青春がいっぱい』のシーンのことではない。本作の監督であるアイダ・ルピノと聞いてまず思い浮かべるのは、ホテルの部屋に閉じこもり不安に駆られる女を演じる俳優としてのこのシーンだ。タイトルは何だったろうか。わたしが彼女の出演作を見たのは少ない。ラオール・ウォルシュ『ハイ・シェラ』(1940)ニコラス・レイ『夜の人々』(1948)のみだと思う。では、イメージとして思い浮かべた作品はどちらなのか。両作品ともフィルム・ノワールだからどちらもありうる。『ハイ・シェラ』には安ホテルが出てきたし、『夜の人々』は夜の怪しげな光が印象深かった。どちらの作品にしても、アイダ・ルピノの俳優としての才能に魅了された。

『青春がいっぱい』はアイダ・ルピノの監督作品なのだが、監督としての彼女の作品を見るのは今回がはじめてだ。映画を配信(そもそも契約をしていない)で見る習慣のないわたしは、映画館にかかる作品でないかぎり見ることはできない。

彼女の監督作品は女性映画として知られているという。本作はカトリックの女性寄宿学校を舞台とした学園コメディーなのだが、孤児となった少女(メアリー・クライシー)が裕福な叔父により、カトリックの女性寄宿学校に送られ、学園の教師である修道女に反発しながらも、彼女たちの献身的な姿勢に心を動かされ、“母性”に目覚め、卒業後に本学園の修道女になることを決意するまでを描いたコメディー作品である。このようにして書くと、予定調和的物語としてのアメリカの学園ドラマのようなのだが、必ずしもそうではない。

ここで注意しなければならないのは、本作の“母性”とは、手垢にまみれた母性のことではない。「きょうとシネマクラブ」webの執筆者であるはせがわななさんの表現を借りれば、「母性=無性の愛」である。
アイダ・ルピノは監督としての自己を「mother(母)と呼ばれることが好き」と語ったという。それは家族的意識ということでもある。ジェンダー視点で述べるならば、当時のハリウッドの映画業界は…ハリウッドに限らず世界的にも…男性を中心としてそれぞれの役割を配置する社会であった。その頂点のひとりが映画監督である。「監督すること……命令を出し、人だけでなく機械をも支配すること……は典型的に男性的、軍隊的とすら言える行為である」「単なる技術者以上の強制力を持って自分のアイデアを周囲に押しつける偉大な監督」(モリー・ハスケル『崇拝からレイプへ』平凡社)。1960年代、ハリウッドの撮影所システムが崩壊する中で、このような男性中心社会という性差別状況も批判され、フェミニスト批評家たちの視線のもとに、アイダ・ルピノが女性監督としてデビューする素地が形成されることとなった。彼女が、「mother(母)と呼ばれることが好き」と語ったのは、男性中心主義による権力支配の批判の思いからなのだろう。

さて、はせがわななさんの指摘する「母性=無性の愛」という意識なのだが、「この意識は女性的な意味ではなく、母性=無性の愛という意味が近いように感じる」(はせがわなな)といことである。〈女/男〉における父性に対置される母性ではなく、性を超えた愛のことである。孤児であるメアリー・クライシーは寄宿学校の教師である修道女の差し伸べる救いの手を忌避していたものの、その献身的な姿を見ることで次第に心を開いていくことになる。その献身性に、メアリーは、母性=無性の愛を見出すのである。

母性=無性の愛を、「mothering(マザリング)」と言い換えるこもできるだる。
マザリングは、映像作家である中村佑子さんの著作『マザリング』(集英社)で知った用語である。中村佑子さんはさまざまな領域で活躍する女性たちにインタビューする中で、自己にとっての「マザリング」とは何か……母、子ども、自己を見つめること……を模索し、論述している。

彼女の著作は母性について多くを教示してくれる。オックスフォード現代英英辞典によれば「motheringマザリング」とは、「the act of caring for and protecting children or other people」つまり、子どもなどケアを必要とする者を守る行為(ing)のことである。ここで中村佑子さんは、「mothering」と「motherhoodマザーフッド」の違いに注意を払っている。「motherhood」は「the state of being a mother」(オックスフォード現代英英辞典)であり、「母である状態、母たる性質という意味である」と。古くからある母という性質(state)とその持続(being)の強度と行為(ing)の差異である。「マザーフッドが生得的な女性に限定されるのに対し、マザリンとは、性別を超えて、ケアが必要な存在を守り育てるもの、生得的に女性でないものや母なるものとしての自然をも指す」(『マザリング』)。『青春がいっぱい』における母性=無性の愛に、「マザリング」、ケアの受け渡しを読み取ってもいいのではないかと思ったのである。

「女性と映画」特集は、一見して女性「性」を深く読み取りたくもなるのだが、そうではなく、性を超えた、誰もが必要とし、誰もが行為としてあらねばならぬ「ケア」の社会的普遍性を見ることができるだろう。

アイダ・ルピノは、女性監督としては初のフィルム・ノワール作品となる『ヒッチ・ハイカー』(53)を撮っている。見る機会があれば嬉しいのだが。

中村佑子『マザリング』(集英社)もおすすめである。

中村佑子『マザリング』

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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