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【映画評】 村瀬大智『霧の淵』覚書

村瀬大智『霧の淵』(2023)

下記覚書をもとに論考を書きたいのだが……

(覚書1)

山間部である辺境の地が舞台ということで、あの、神々しい自然が横溢する映画世界なのか(必ずしもこれが悪いわけではないのだが……)と思い見るのを躊躇った。だが、予告編を見て、そうではなく、欧米人にとっての東洋的スピリチュアルを前景化する世界(オリエンタリズム)の呪縛から自由な振る舞いがうかがわれたので、見ることにした。結果として見てよかった。

とりわけ不在の表現が素晴らしく、新しい才能を発見した思いがする。
不在とは、山間部の廃れゆく村落(たとえば撮影場所である奈良県奥吉野川上村)のことであり、姿を消した祖父シゲにい(堀田眞三)のことである。
前者は自然に包まれた桃源郷のような情景として呈示され、後者はシゲにいが夕食後、2棟に分かれた旅館の2階廊下から向かいの旅館の様子を眺めるシゲにいの定位置であった椅子の主人のいないショット、少女イヒカ(三宅朱莉)と母・咲(水川あさみ)の寝姿、そして、イヒカと咲、二人だけの食卓のショットが、シゲにいの不在を静かに描いている。そして、たとえシゲにいが不在であっても、イヒカと咲の生活の佇まいを静かに呈示することで、二人の生活が続く(もしくは、咲が旅館を閉めることで、イヒカも村を離れることになるのかもしれない)ことを暗示させる表現に、本作品の監督の特質がうかがえた。

(覚書2)

通りを挟んで二棟ある旅館の構造を通して、不在というテーマが描かれる。旅館の2階廊下から通りを挟んで客たちの宴の様子と咲に眼差しを送る椅子に座る祖父シゲにいの眼差し、そして椅子の主人の不在。不在となった祖父の映画であり、イヒカ、咲の、ふたりの女性映画でもある。

近接未来の不在を表象するのはシゲにいの背中のショットであり、現在時制での不在を表象するのはイヒカと咲の寝姿と食事、そして、廊下の定位置にある主人のいない椅子のショットである。その不在には、空間としての淵のような静けさと美しさがある。だがこの美しさは、辺境へのスピリチュアルな視線としてあるのではなく、実存としての美しさだ。ショットによって不在が表象され、わたしもその美しさに引き込まれた。それはタイトルが示すように、霧のようなものとしてあるといってもいい。本作は旅館の構造を取り入れた独特な表現方法を取り入れた、不在に向けたイヒカと咲の眼差しの物語でもある。異なる時間軸や空間で織り交ぜられた不在の描写に深い感銘を覚えた。

(覚書3)

シゲにいの不在を記憶の古層へとつなげる物語だ。

シゲにいに向ける少女イヒカの眼差し(視線の対象者でありながら視線の介在者)が奥吉野川上村やシゲにいの記憶の古層に触れる。つまり、本作はプルースト『失われた時を求めて』であるといえる。旅館の構造や佇まい、設え、村はずれの廃屋、通行禁止の立て看板、そして言葉少ないイヒカの眼差しとシゲにいと咲の背後のショット。それら巧みなショットが奥吉野川上村の記憶の古層を立ち現せる。これはプルーストへの村瀬大智監督の眼差しなのかもしれない。

映画とは関係ないかもしれないが、咲(水川あさみ)の髪型。どこかで見た髪型だと思いながら映画を鑑賞していたら、レオス・カラックス『汚れた血』のアンナ(ジュリエット・ビノッシュ)だ、と思った。監督がカラックス作品を意識したか否かは分からないけれど……。
では、少女イヒカ(三宅朱莉)は誰に対応するのか。無理に対応づけるならオートバイ少女リーズ(ジュリー・デルピー)だろう。ではシゲにい(堀田眞三)は?アレックス(ドニ・ラヴァン)となる。

《村瀬大智監督の過去作》

長編『ROLL』(18)、中編『赤い惑星』 40分(20)がある。
『ROLL』は《なら国際映画祭2020》ナラウェヴ(学生映画部門)で上映されている。「良弘は寮とバイト先のリサイクルショップと、たまに大学に行き来するだけの生活を送っていた。彼の唯一の楽しみはリサイクルされなかったガラクタたちを持ち帰り、解体すること。そんな良弘が出会った「フィルム」という未知の物質と少女・ナズナ。この遭遇から良弘の世界が大きく広がっていく」(映画祭の解説)。観客賞受賞。『赤い惑星』は2019年「カンヌ映画祭short film corner」で上映。機会があれば鑑賞したい。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

村瀬大智『霧の淵』予告編


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