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映画の扉_cinema

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どんなに移動手段が発達しても世界のすべては見れないから、わたしは映画で世界を知る。
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《映画日記1》 エドワード・ヤン『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』、ほか

(タイトル写真:エドワード・ヤン『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』) 2012年から映画日記をつけるようになった。その経緯については下記noteにあるので、ここでは省略する。 日記とは他者が読むことを前提としない自己の内面を吐露した恥ずかしい文なのだが、あらためて読み返してみると、不思議なことに、自己から遊離したわたしではない何者かの文・思考になっている、と思えた。 過去のわたしは今のわたしではないのだろうか。今は、たちまちのうちに過去へと追いやられ、自己は消滅、もし

【映画評】 「Twitter時代」ツイートは包帯にうっすらと滲み出た血痕のような〈生〉な味がする

「映画日記」を書きはじめたのはある年の元旦。その前年から少しずつ映画について日記風雑感を書いていたのだが、どういった心境の変化なのか、年のはじめに「映画主義宣言」などとつぶやいてしまった。その日の日記に、《フレーム=身体》などと、とんでもない断言をしている。 それまでは、演劇における身体に眼を向けていたのだが、いつのまにか、映画のフレームにおける非物質的身体…要するにフレームに浮かぶ光としての触れることのできない身体…に興味は傾斜していた。フレームを介在させることで立ち現れ

【映画評】 ジュリアン・モーリー&アレクサンドル・バスティロ『屋敷女 ノーカット版』フレンチ・ホラー四天王

ジュリアン・モーリー&アレクサンドル・バスティロ『屋敷女 ノーカット版』(2007) ベアトリス・ダル主演の本作。2007年の日本初公開時には、残虐な描写のため大幅な修正とカットを余儀なくされたという作品である。今回の上映はノーカット版。初公開時の修正版をわたしは見ていないので、ノーカット版との違いは分からない。 主演のベアトリス・ダルはジャン=ジャック・べネックス『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』(1986)で世界に衝撃を与えた俳優だが、本作は彼女の第二の代表作となった

【映画評】 ロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』、イングリット・バーグマンのこと

ロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』(原題)Roma città aperta(1945) 本作は第2次世界大戦末期、同盟国でありながらイタリアに侵攻したナチスドイツに抵抗するレジスタンスの戦いを描いたイタリア・ネオネアリズモの原点ともいえる記念碑的作品である。 本作をはじめて見たのは東京で働いていたときである。ロベルト・ロッセリーニ(1906〜1977)の連続上映があり、何本かまとめて見ている。記憶は定かではないけれど、『無防備都市』(1945)『戦火のかなた』(194

【映画評】 エレム・クリモフ『炎 628』 #FreePalestine

エレム・クリモフ『炎 628』(1985) ソ連崩壊が1991年。本作製作はその6年前である。ソ連社会がそれなりに機能しながらもどこか怪しく揺れることを自覚していた、そんな時期に製作されたのが『炎 628』。 タイトルの数字「628」はナチスが焼尽した村の数である。この映画がソ連の反ナチス・プロパガンダであるか否かは問わないことにして、戦争の実相とはこのような地上の情景であると推察できる。上空から撮られた戦争は全てフィクションであり、戦争の実相は地上でしか描写できない。そ

【映画評】 村瀬大智『霧の淵』覚書

村瀬大智『霧の淵』(2023) 下記覚書をもとに論考を書きたいのだが…… (覚書1) 山間部である辺境の地が舞台ということで、あの、神々しい自然が横溢する映画世界なのか(必ずしもこれが悪いわけではないのだが……)と思い見るのを躊躇った。だが、予告編を見て、そうではなく、欧米人にとっての東洋的スピリチュアルを前景化する世界(オリエンタリズム)の呪縛から自由な振る舞いがうかがわれたので、見ることにした。結果として見てよかった。 とりわけ不在の表現が素晴らしく、新しい才能を

【映画評】 アグニエシュカ・ホランド『人間の境界』

アグニエシュカ・ホランド『人間の境界』(2023) アグニエシュカ・ホランド作品を見るのは本作が二度目である。はじめて見たのは2012年12月、『ソハの地下水道』(2012)。劇場は今回と同じ京都シネマ。『人間の境界』は森の映像で始まるのだが、『ソハの地下水道』にも森が出現した。それは映画冒頭だった。その日の映画日記に、わたしは次のように記している。 さらに物語についての記述が続き、「145分の長編だったが、長さを感じさせることのないストーリー展開と巧みなショットに見入っ

【映画評】 MADE IN YAMATO 宮崎大祐『エリちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日』…時間についてのいくつかの覚書

並奏する二のカノン。揺れ動き交錯する音響に浸る愉楽の体験。 タイムカプセルという未来、恐竜という過去、そして「今」という現在。 「今」は更新を前提とする持続する時間であることで、たちまち過去へと追いやられる曖昧さを持つ存在でもある。いまそこに在る(在った)という変貌する時間の曖昧さ。「今」を写真に撮れば、「それは=かつて=あった」というロラン・バルトに帰結する。 右目で見る世界、左目で見る世界。それはコーピー元のないコーピーであり、見ることの根源に、オリジナルの喪失が既

【映画評】 草野なつか『王国(あるいはその家について)』 〈声〉と〈身体〉に関するメモ

草野なつか『王国(あるいはその家について)』(英題)Domains(2018) 本作をはじめて見たのは2019年、神戸の元町映画館だった。その時は言語化(テキスト化)し、noteに発表した。 さらにより深く理解しようと、2019年10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で鑑賞。再び言語化を試みようとしたのだが、言葉は霧散し、わたしは成す術を失った。 今回(2024.2.26)、三度目の鑑賞となる出町座ではどうだろうか……。 たとえば、役者の身体も「家」であり、役者それぞれの

【映画評】 カルロス・ベルトム『マジカル・ガール』

数週間前からカルロス・ベルトム『マジカル・ガール』がX(旧Twitter)上で話題にあがることが多くなった。『マジカル・ガール』は2014年製作だから、リバイバル上映されるのかと思ったらそうではなかった。監督カルロス・ベルトムの新作が今春、上映されるのだ。タイトルは『マンティコア 怪物(原題)Manticore』。 主人公は空想のモンスターを生み出すことが得意なゲームデザイナーのフリアン。彼は内気で繊細な性格なのだが、隣人の少年を火事から救ったことをきっかけに、思いもよらぬ

【映画評】 きょうとシネマクラブ「女性と映画」特集 アイダ・ルピノ『青春がいっぱい』

きょうとシネマクラブ「女性と映画」特集・第2回上映作品 アイダ・ルピノ『青春がいっぱい』(1966) モノクロ映像によるホテルの小さな部屋。白い壁と白いベットシーツ、そしてベッドにはひとりの金髪の女がおり、窓ガラスから入り込む街灯の光が部屋という閉空間を怪しく映し出している。窓ガラスに打ちつけ流れ落ちる雨粒を部屋に入り込む光が壁面に映し出し、女の顔にも光としての雨粒が流れる。フィルム・ノワールとして部屋を変容させる雨粒であり、このときの女の表情はまさしくフィルム・ノワールだ

【映画評】 宮崎駿『魔女の宅急便』 上昇と下降、現実を浸食する力

「文学作品に「驚き」を期待するほど、批評家として怠惰な姿勢もあるまい。」 と述べたのは、早稲田文学新人賞受賞作、黒田夏子『abさんご』についての蓮實重彦の選評においてである。 「驚き」を期待するのは、なにも文学作品には限らないだろう。映画やアニメにおいても、やはり「驚き」を期待するのである。ところが、「驚き」はそうたやすく訪れてはくれない。だが、作品そのものから「驚き」が舞い降りるということはないにしても、見る者の視線に、「驚き」が内包されていることは経験的に知っている。

【映画評】 リチャード・リンクレイター監督『スラッカー』 スイッチングという戦略

人は絶えず何かにスイッチ「オン/オフ」し、それが意図的であろうとなかろうと、「オン/オフ」した対象により、その後の人生が決定される。人の運命とは、たかだかそんなものに違いない。リチャード・リンクレイターは運命論者であると言いたいのではない。彼が監督したインディペンデント映画の先駆的作品である『スラッカー』(1990)は、スイッチングの映画であると言いたいのだ。このことは、映画冒頭の若者を捉える一連のショットが雄弁に語っている。 若者はバスの中で目覚め、タクシーに乗りかえる。

【映画・音楽評】 リュック・フェラーリ……ほとんど何もない Presque rien

リュック・フェラーリLuc Ferrari(1929〜2005) フランスの作曲家、映像作家。特に電子音楽で知られる。 映像作家としてのフェラーリ作品が上映される機会は、日本ではほとんどない。研究機関や特別な上映会においてのみである。 リュック・フェラーリ『ほとんど何もない、あるいは生きる欲望』 Presque rien ou le désir de vivre ドイツ(1972・73) 第一部 コース・メジャン Le Causse Méjean 第二部 ラルザック高原