「京都らしさ」を、考える
このたびいろいろと訳あって、5年以上も暮らしてきた京都を離れることになった。こう書くと、いかにも被害者みたいに聞こえるかもしれないけれど、もちろん決めたのは僕自身だ。
僕が考えて彼女に提案をし、時間はかかったが受け入れてくれたので、僕の転職と彼女のしごとの異動願いが叶いしだい、ふたりで僕の実家にちかい関東に居をうつすことにした。そのため、彼女が来られるまでは僕は実家暮らしにもどることになる(そこだけが不安)。
詳しい内容は、後日また別の記事に書けたらと思う。焦らすつもりはないのだけれど、なにぶんまだ不確定な要素が多いため書くことができない。
ただ、ひとつだけ言えることがあるのなら、「いつかまたこの地に帰ってくるために、そのステップとして離れたい」という感じだろうか。いまでも京都を大好きだというきもちは、数年前のあの日から変わっていない。
「京都のなにがそんなに好きなのか」
これを聞かれると、いまでも少しは答えに詰まる。寺社や鴨川や歴史など、それこそ京都の魅力を書けばキリがない。それらが魅力的なのはまちがいないのだけれど。
ただ、それだけなのかと考えるともっと僕なりに深ぼれる気がした。
①“風情”と“便利”が共存している
京都の代名詞はいくつかある。なかでも僕のばあいは、寺・神社・鴨川・歴史・山などがパッと思いつく。
この風情にくわえて、都会の便利さがあるからいい。東海道新幹線をつかえば、東京までたったの2時間ちょっと。大阪までは30分で行ける。京都市内はつねに市バスが交差している。休日の四条通りや河原町通りなんかは、おおぜいの若者や観光客でいまにもあふれだしそうだ。
人が多いのと便利なのは、またちがう話なのだけれど。「都会のなかに自然がある」その雰囲気が、京都のまちの大枠なのかもしれない。
②暮らしがいつも教科書のなか
「歴史が好きだからこのまちに来た」僕のばあいは、そう断言しても構わない。それぐらい歴史が、子どもの頃から好きなのだ。
京都にかぎらず近畿エリアのたいはんに言えるのかもしれないけれど、都にちかいということはそれだけ歴史の中心であったということ。学校の授業で習うことが、ごく近所で繰り広げられていたことを想像するだけで胸が熱くなってくる。歴史のなかで暮らしていると言ってもいいだろう。
現在の(実質上の)首都はもちろん東京だけれど、江戸が政治の中心になったのは400年ほど前。天皇が東遷されたのはたかだか150年ほど前の話。いまでも日本人の心の都が、京都であるのも頷ける。
③偉大な作家さんたちがいる(いた)
それこそ、挙げ出せばキリがない。山本兼一さん、澤田瞳子さん、森見登美彦さんなどなど。
僕が敬愛する司馬遼太郎さんだって、新聞記者時代に京都支社で勤めていたのだ。のちに「そのときの経験が、小説やエッセイの種になった」と述べているのもわかる気がする。
④“イケズ”は当たり前だった
京都人を表すときに、よく“イケズ”という言い方をする。皮肉っぽい。まわりくどい。素の心をあまり見せない、そんな感じだろうか。
僕も、関東の知り合いに会ったときに、「実際、京都の人ってどうなの?」としょっちゅう聞かれている。そのたびに僕は、「いや別に、思ってるより普通だけど」と答えていた。だが、最近、京都人の本質に気づいた気がする。
京都はむかしから、いろいろな土地からの流入者が多い。現代でも、新しいホテルや飲食店などの建設により、人の入れ替わりがとても激しい。そんななか、他人に素を見せたがらないのは当たり前なのではないか。
⑤プライドが高そうな京都の食事
“京料理”というと、それだけで敷居が高そうなイメージがある。実際に、一見さんお断りのお店も多い。
僕のなかで、京都の料理にたいするイメージはあまりよくない。全国にあるほかの観光地などと比べても、手軽においしい食事を楽しめるB級グルメみたいなものがない。前述したように、(京都が発祥という意味では)気楽なきもちで食べられるものも少ない。
それでも魅力に感じられるのは、全国どこを探しても京都しかない、と思っている。やはり1200年間、都であったというプライドなのか。ほかとは格がちがうという神秘性もある。
たとえば、東海道沿いのどこかのまちにいるときに。たとえば、東京駅に着いたときに。大袈裟に書けば、日本全国の“京都以外”の場所にいるときに、京都関連のイベントや展示会、書店で京都の本などを見るといつも、「京都っていいなぁ」と思ってしまう。
つねに京都は、僕たちの憧れの的であって、僕たちにとっての“非日常”は、京都人にとっての“日常”でしかない。
④で書いた「京都人はイケズ」というのも、他人に冷たくしようっていう嫌らしさより、「よそさんにはわかりまへんけど」という身内意識がつよいことをわかってもらうための、京都人なりの配慮なのかもしれない。
よくもわるくも、僕はこれまで、個性がないじぶんの境遇が好きにはなれなかった。だから、京都弁や、独自の歴史や文化に代表される「京都ブランド」に強烈な魅力を感じざるをえないのだと思う。
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