noteを書ける、はきっと僕らの武器になる
「美しい景色は人がつくり上げるものです。この当たり前のことに1000年たった今、ドキリとするのはどうしてだろう。」
これは、僕が京都好きになった原点ともいえる「そうだ 京都、行こう。」HPのキャンペーンギャラリーに載っている1枚のポスターだ。ときは2007年盛秋。ところは嵯峨の大覚寺。
大覚寺
真言宗大覚寺派の大本山。山号は嵯峨山。貞観18年(876)に淳和天皇の皇后正子内親王が、父の嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を寺にあらためたことに始まる。なお、ポスターにうつる「大沢池」は、ふるくから月の名所として親しまれている。
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秋だなぁ、とふける間もなく冬がきたようだ。
我が家ではもうすでに、繊維素材のあったか敷きパッドをつかい、毛布かぶって眠っている。つい1週間ほどまえまでは、頭のよこで扇風機がブルンブルンと音を立てながらまわっていたとはおもえない。
それでも暦のうえではやはり秋だ。涼しげな風をかんじるとどうじに、目線をあげれば木々は煌々と僕を赤く照らす季節がもうすぐ迫っている。これから京都は、一気にあわただしくなる。
大覚寺さんは、数年まえにいちどだけ訪れたことがある。呆れるほど広いお堂を歩いて、気分転換というか、貴重な経験のためというか、その場できめて写経体験をした。写真でみると達筆にみえるかもしれないが、小学生の漢字練習のようにお手本をなぞっただけである。
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ところで、人間にできることってなんなのだろう、と最近ふとした合間によくかんがえる。
AIの台頭がめざましいこの世のなかで、はたして人間が書く文章に意味などあるのだろうか、と。たしかに現時点でもう、定型文のような色のない文章を書かせたら人間よりAIのほうが優れているような気がする。僕じしんも、chatGPTをたまにつかう。課金はまだしたことはないが、それも時間の問題なのかなとおもったりもする。
だって、それぐらい便利だから。人に聞く以上に有益だ(とおもう場面もある)から。正確性にとぼしいとか、けっきょく人がファクトチェックをする必要がある、と言ってつかわないという声をたまに聞くが、それこそ時間の問題だ。いまのうちから慣れておくにこしたことはないと僕はおもう。
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じゃあ、いよいよ人間が書く意味ってなんなのだろうか。
それは、このnoteにこそある。noteらしい文章、と言ってつたわるかどうかは読み手しだいにはなるのだが、「エッセイふう」「小説ふう」「あなたの世界のものがたり」、こういう文章が読みたいし、僕は一生書きつづけたい。
美しい文章を、美しいとかんじるのは人間だけだから。
たくさんの言葉や映像をたくわえて、心とあたまにきざみこんで滞留させる。そうして洗練された心情をnoteなどに綴っていく。
ものがたりは、一朝一夕にはうまれない。僕にしか書けないものを書くために今日も書くのだ。
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