1200年の京都の歴史は、実はちっぽけで些細なできごとの繰り返し
みなさん、今年のGWはいかがお過ごしですか?
僕はと言うと、
図書館でのしごとが無事に終了し、5月は自宅で過ごす時間ばかりになってきている。そんななかYouTubeを眺めていたら、これらの動画が目に入り、つい観入ってしまったりもした。
「クイズノック」と呼ばれる彼らは、東京大学を中心とした高学歴な人たちで集まり、テレビやYouTubeなどで学びの楽しさをつたえる活動をしている。僕も、けっこう初期の頃からチェックしていて、わりと好きなYouTuberだ。それほど頻繁に観ているわけではないのだけれど、こうやって定期的におすすめ表示されるぐらいには関心があるほうだと思っている。
ところで、この動画は、「世界史のおもしろさ」について語られたものだった。そのなかで彼らが、世界史をこういう言葉で捉えていたのが印象的だった。
大きな木とはどういう意味なのだろう、と僕は考えるために動画を止めた。
ようは、「どういう切り口で見るのか」ということ。日本の歴史にはもちろん、日本のことしか書かれていない。厳密には、元寇や鎖国など、他国との関わりも当然に影響しているのだけれど、日本史のおけるメインの軸は、もちろん日本が舞台の事例ばかりだ。
その点、世界史には、ヨーロッパやアメリカや中国などの“地域”という見方もあるし、原始・古代から現代までの“年代”という見方もある。
いま僕たちの目の前に大木があったとして、木の幹はたいてい円柱にちかいので、それを正面から見たり、右から、左から、奥から見たりすることができる。つまり、これが地域を見るというであり、見る角度によって見え方が変わる。そして、その木を地面と水平にスパンと切ると、年代がわかる。
この大きな木という捉え方は、興味ぶかいなと思った。僕は子どもの頃から歴史が好きなのだけれど、そのなかでもとくに「京都」にかんする歴史が大好きだ。
ただし、京都も、世界の歴史という大木のなかで考えると、日本史という一本の枝からつながる「一枚の葉」にすぎない。
歴史というものは、見る人の切り口でさまざまに変化するもの。日本史のなかの京都の存在という、“マクロ”の視点で見るのも楽しい。一方で、京都史においては、1200年かけて都の人間たちが紡いできた膨大な文化や遺産を深掘っていく、“ミクロ”の視点も欠かせないはずだ。
歴史を知ることは、ただ過去の出来事を知るだけではなく、「現代を見る解像度を上げること」でもある、と彼らは動画で言っていた。
過去を学び、未来に活かす。
なるほどな。僕たちが生きる現在も、過去に都だった京都も、歴史という長く大きなもののなかではごく限られた「一部分」なのだと気づかされる。
あぁ、やっぱり歴史っておもしろい。
さて、GWもあと残りわずかとなった。今日はどこで何をしようか。
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