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文学の森のなかで暮らす

書くことは生きることだ、どこかの誰かが僕にそう言った。

逆だと思う。生きるから書くのだし、生きているから、書きたくなるのだ。

noteを初めて2年半ぐらい、これまでに700本ちかくの記事を書いてきた。僕は、仕事中や自転車に乗っているときなど、何か別のことをしているときにnoteのネタのアイデアが思い浮かぶことが多い。仕事をする、自転車を運転する、どちらも僕にとっては生活に欠かせない“生きること”だ。

何も、ネタを考えよう、などと考えながら日々生きているわけではない。勤務先の図書館にて、利用者が読み終えた本をパラパラと捲っているときや、自転車で無心になってペダルを動かしたりしていると、ふと何気ないどうでもいいことが気になりはじめる。それらが結局、火種となって、黙々と思考を巡らせると、千文字ほどの文章であればさほど苦労せずとも書けるようになった。

だが、ここ最近は、あきらかに僕のなかに変化が生じている。それは、休日に家にいるときのほうが考えが容易にまとまるし、実際に、書けていることに気がついたのだ。

僕の休日は、言うまでもないことだが、わりとダラダラと過ごしている。我が家には子どもがいるわけでもないし、ペットを飼っているわけでもない。僕と彼女のふたり暮らしである。そして、その同棲をしている彼女のしごとは接客業のため、土日祝日関係なくしごとがある。だから、僕が家でひとりで過ごす時間はわりと多い。

最近、近所の公共図書館にて、『ベスト・エッセイ』という本を借りてきて読んだ。

2014年ぐらいのものから5年分ぐらいをまとめて借りてきたので、とても重かったが、noteでこうして“日常”をテーマに日々書いている身としては、非常に勉強になるいい時間となった。

そして、2月は、僕が勤めている大学図書館の閑散期であるため、それはもうたくさんの休日をいただけている。その貴重な休日を駆使して、プロの作家が書いたエッセイを、これでもかというほど乱読している。

だからだと思う。

「小説家志望の人は、好きな作家の文体をつかむために、ひたすらその人の作品を模写したことがある」という話を聞いたことがある。僕は、そこまでの根性があるだけで他人事のように感心してしまうのだけれど、僕だってそれだけ読んだり書いたりしていると、筆者の文体やリズムが自分の身体のなかに入ってくる感覚はなんとなく理解できる気がしている。

逆にいえば、つねに“読む頭や目”を養い続けなければいけない。極端な話だが、これまでに一冊の本も読んできたことのない人は、もし世界を放浪する旅に出たとしても、「文章にして残そう」という発想にはならないのと同じことだ。

休日であれば、当たり前だが、本が読める。たくさんの言葉に触れることができる。もちろん、平日のしごとでもそうなのだけれど、能動的に「これ読みたい!」という気持ちで摂取した言葉は、スルスルと僕の身体へと侵入して、それが養分となり、また、文学の森noteへと還元されていく。

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