noteにおける編集者
つい昨日、このnoteで「僕の彼女が芸能人とばったり会った」という記事を書いた。
そのときのちょっとした裏側を書くと、僕は当初、記事のなかで“その俳優さんの名前”をそのまま載せようとしていた。理由はもちろん、読むときにそのほうがわかりやすいと思ったからだ。
まさか、「とある有名俳優さん」
これであとはイメージしてくれ、と読者にゆだねるのはちょっと烏滸がましすぎるのではないか、と。それにイメージ云々のまえに、名前がなければ読んでも意味がない、とすら考えてもいた。
そもそも、店の場所を書くわけでもない。どれだけ有名な芸能人でも買い物ぐらい行くのだから、名前を書いても問題はない、そういう軽いきもちで書こうとしていた。
ただ、まぁ、一応。この目撃談のソースは、彼女の証言、ただそれのみである。だから、記事を書こうと思ったとき、彼女にそのまま尋ねてみた。「◯◯さんという名前、そのまま書いてもいいよね?」と。
すると、生粋の京都人である彼女はこう言った。
「いや、あかんやろ。完全なプライベートで来てくれはったんやから、名前を出すだけでも失礼やと思うけど」
いま思えば、ドがつく正論のど真ん中である。
思ったことを、
そのまま自由に書けばいい。
そうは言っても、このnoteのいいところ、それは、“だれでも気軽にどんなことでも”投稿できるところにある。僕のような素人であっても、その気になれば、1万文字でも2万文字でも書くことができる。
それにたいして、文章が長すぎる、文法がまちがっている、などと指摘される謂れもない。
(そもそもnoteにそういう人は存在しないと思ってはいるが)
noteにおける編集者。
ただ、時として、それは危険な考えにもなる。
前述のこの記事にて、僕がその俳優さんの名前を書いて投稿していたならば、僕のアカウントの影響力ではなんの問題もないはずだけれど、「書き手としては」非常に問題アリだと思った。
考えすぎてなにも書けないのもよくないが、なんでもそのまま書けばいいというわけでもない。自由に書けるからこそ、編集者という、記事を客観的に見てくれる存在が必要だと思った。
編集者は、じぶん。
今回の僕のように、身近に記事を読んでくれる人がいればいいのだけれど、僕の彼女だって暇ではないので、毎度チェックしてくれるはずもない。
信頼できるのは、じぶんの目、しかないのではないか。書くのもじぶん、見るのもじぶんだ。読んでくれる人のきもちになって初めて、記事は完成する。
noteは当然、自由に創作できることにその魅力がある。ただ、そのなかでも、いかに目を養えるか。そこに文章の良し悪しは関係ないのだ。
僕の記事をここまでお読み頂きありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 頂いたご支援は、自己研鑽や今後の記事執筆のために使わせていただきます。