「毎日投稿」という夢
そうだ 京都、行こう。という企画が、2023年の秋に30周年を迎えた。これのCMなどがきっかけで、京都を好きになり、いまではれっきとした京都市民になった身からすると感慨深いものがある。
記念として出版された本も、もちろん買った。
20周年のときのものは言わずもがなだが、今回のものもかなりいい。てっきり、2013年から2023年のあいだの「10年分」を載せているものかと思って買ったのだけれど、90年代のものも載っていたりして、「これまでに描けなかったものの集大成」という感じでさらにいい買い物となった。
京都はすでに、桜の季節である。
京都以外ももちろんそうなのだけれど、桜があるかないかで、このまちの住みやすさは大きく変わるため強調してみた。
桜の木を見て、みなさんはどんなことを思い、なにを考えますか?
僕は、往々にして「節目の季節だな」と思ったりする。
とはいえ、まあ。
この期に及んで、またこんなタイトルの記事を書くことになるとは思わなかった。というのも、僕はこれまでに、約430日ほどnoteで毎日投稿をつづけてきた経験がある。そして、それをやめると同時に、もう毎日投稿はしないときめていた。
それでも、また書きたくなったのには理由がある。
書くという習慣を取り戻したい。
趣味でも仕事でもなく、ただ書く、気持ちを吐き出す、そんな習慣をまたつくりたくなった。唯一にして最大の理由が、これである。
イメージとしては、じぶんのあたまに眠っていることをネタにして書くのではない。まちを歩いて、本を読んで、映画を観て、人と話して感じたことを、僕のあたまのなかでごちゃまぜにして、それを言葉にして投影する感じ。
「あぁ、なにを書こう...」と、ムリして書いても意味がない。
だから、
書き溜まるまで待っていた。
僕がふだんからこのnoteで読んでいるような方々は、毎日書いているというよりも、日常的に記事をストックしていてそれを小出しにしている、そんな認識があった。
僕だって、そうしたほうがたぶんいい、ということは理解していた。これまでにだって、体調不良などを理由に思うような記事が書けなくて悔しい思いをしたことがある。実家に帰省したりして、単に書く時間をつくれなかったこともある。そうなると、だれかに頼まれて始めたわけでもないのに、勝手にひとりで罪悪感を感じたりもしていたのだ。
悶々としていた、そんなある日のこと。
國學院大学の公式noteにて、日野笙さんという方が、やはり「記事をストックしている」という話をあらためて聞いた。
書き溜めることについて。
僕のなかで、記事を書き溜めておくことのデメリットは、いまのところ1つしか思いつかない。
それは、記事の鮮度の話である。書いたものはできるだけすぐに投稿したいし、記事のなかで「昨日は〜」と書いても、実際に投稿する日が5日後とかになると、たとえじぶんのことでも混乱してしまうかもしれない、と心配していた。
ただ、それは当たり前の話だけれど、投稿する直前に確認をすれば済む話だ。僕は、noteに課金をしていないため予約投稿もできない。となると、どうしても投稿する前はかならず二度三度読み直しをするはずである。
数日経った記事は、いい意味でも「じぶんが書いた感じがしなくなる」ので、他者目線で添削ができるというメリットもある。それに、毎日ゼロから書くことと比べたら、労力の差は言うまでもない。
と、いうわけで。
今日から毎日投稿を再開します。今日投稿するこの記事をのぞいて5つの記事が書き溜まったので、いまいちど毎日書く(投稿する)ことを始めてみたい。
始める前から言い訳をするつもりはないのだが、今年は転職があったり、いろいろと慌ただしい年になりそうなので、今度ばかりもいつまで続くかはやってみないとわからない。
実験として、どこまでつづくのか見守っていただけたら嬉しいです。
僕の記事をここまでお読み頂きありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 頂いたご支援は、自己研鑽や今後の記事執筆のために使わせていただきます。