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どれだけ世界がデジタル化しても、図書館のような「学び」を創れる大人でありたい

この4月末をもって、僕の図書館での勤務が終了する。厳密には4月30日に最後の出勤日がひかえているため、まだ終わったわけではない。ちなみに、29日の昭和の日は休みだ。ただ、30日は「蔵書点検日」のため、カウンターを挟んで利用者と向かい合ってしごとをすることはもうない。

図書館が職場になってからというもの、1年と5か月ほどの月日が経過した。やめる決断をしてから、とくに最近は、図書館についてこう思うようになった。

ほんとうにありがたい環境だったな、と。

僕が勤めていたのは、大学図書館だった。公共図書館ならもちろんそうだが、いまは大学の図書館でも一般の方々も利用できるばあいが多い。現住所がわかる身分証明書ひとつで入館できるはずだ。

さて、一歩でも図書館のなかに足を踏み入れたのなら、たとえ数年泊まり込んだとしても読み尽くせるはずもないほどの本や資料が置いてある。汚したり破いたりしなければ、好きなだけ読んでもいいし、複写コピーのことして持ち帰ってもいい。そこからちょっと想像をふくらませることで、こうやってnoteで文章を書く材料にすることだってできる。当然ながら、だれからもなんにも文句を言われる筋合いはない。

その間、時間は費やすが、お金はほとんどかからない。そもそもの話、学ぶ意欲を刺激してくれる場所や空間が、僕は子どもの頃から大好きだった。図書館のほかには、博物館や美術館などもそれにあてはまるだろうか。旅行など、知らない土地で見つける歴史や文化の痕跡などもおもしろい。時間がゆるすのなら、そういう場所には何時間だっていられる。

何事も、環境が大事だ。学校のテスト勉強は、なにをやるか、いつやるかではなく、「どこでやるか」を重視していた。そうやって、自宅からバスに乗っていくスターバックスが、僕のお気に入りになった。

近所の図書館には当時、学生が自習できるようなスペースがなかったからだ。学校でやるのはまわりの目が気になるし、自宅ではもちろん集中なんてできるはずもなかったために、「じゃあどこでやればいいんだ!」と叫びたいきもちがつねにあった。

僕はいつか、「学びを、つくれる」大人になりたいなと思う。

それは、図書館のように入るだけで学ぶ意欲が刺激されるような「空間づくり」でもある。そういう建築にたずさわりたいなと。

あとは、このnoteもそう。いまはまだ口に出すこともはばかられるような遠い夢ではあるけれど、「僕が書いた文章」でどこかのだれかの学ぶ意欲を刺激させることができたらどんなに嬉しいことなのだろうか。

そのためにはなによりも、僕自身が学びつづけるしかない。言いたいことは、ただそれだけである。

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