できないからこそ、楽しめる
つい最近になって、わかったことがある。
最近、noteで「書けない。ぐぬぬ...」となることがほとんどなくなった。理由は単純明快で、書けない日は、書かないからだ。いままでは「書けないなぁ」と嘆きながらも、すこしでも書けることを拾いあつめて書きつづけていた。
それがいまでは、“2〜3日書いて、1日休んで”みたいな習慣がほぼ完全に染みついている。こんな感じのペースで、月20本ほど、年間で240本ほど書ければ十分かなと思っている。
しかし、あらためてこのこと振り返ってみると、書けない(書かない)日があるからこそ、書ける日が楽しくなるのかもしれないなと気がついた。だから、書けないこともふくめて書くという行為の一部なのだと思う。
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スポーツでもなんでも、できないことがあるからこそ、それができるようになったときがいちばん楽しい。趣味でもそうだ。僕はずっとバスケットボールをやっていたから、最近はYouTubeで高校バスケのプレイ集みたいなものを好んでよく観ているのだけれど。
3ポイントシュートは、ほぼほぼ入らないから、入ると楽しい。プロでも、試合中に3割入れられればそうとうなものだと言われている。打てば必ず入るのであれば、練習をする意味がない。バスケットも楽しくなくなる。
ほかにも、釣りなどがそうだ。釣りは、釣れない時間こそ楽しめないとつづかないと聞いたことがある。竿を放れば魚がすぐに釣れるのならば、それは趣味ではなく、ただの漁業になる。
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noteの話に戻るのだが。
心で感じたことや、あたまに思い浮かんだ内容を、サッと思うがままに文章にできるのであれば、それはそれは楽しいだろうなと思う。しかし、冒頭で書いたように、あたまを抱えながら文章を練りあげていく過程も苦しいが、また楽しいものだ。
僕の場合は、なまじ2年以上もこのnoteで書いている。だから、「こんなものは世に出せない」とか「長屋正隆はこんなことを言わない」などと、noteに書くうえでじぶんに課している一定のラインがある。このプライドが、書いている途中でジャマをして、筆を持つ手をとめてしまう日も少なくない。
それはひとえに、書けないことすら楽しめているからだと思っている。
仕事ではないので、よほどのことがない限り、もう無理をして書くことはないのだろうが。僕は、あまり書くことが得意ではなくてよかったと思う。同時に、書けないのにもかかわらず、書くことをキライにならないでいられることにも感謝している。
書けなくても最後の一滴まで悩みぬいて、それでも無理なら、家でゆっくり本でも読もう。書ける日は、またやってくるから。
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