その日記を書けるのは、あなただけ【下鴨神社】
愛車(自転車)のメンテナンスのため、京都大学ちかくにある自転車屋さんに行ってきた。
平日も休日もとわず、ほぼ毎日のように自転車をつかって移動している。京都が南から北へ、ゆるやかな坂になっているのは有名な話で。僕の自宅は御所よりも京都駅よりも“南”にあるため、たいていの場所へは、行きは上りで帰りは下りという負荷がかかる。
◆◆◆
さて、自転車をあずけた僕は、どこで何をしようか。翼をもぎとられた鳥の気持ちを想像しつつも、ここは京都だ。あるいて行ける範囲でどこかに行こう。
よし、と頭に思い浮かんだ場所が、下鴨神社であった。あるいて10分ほど、すでに夕方4時をまわっていた。
糺の森は、これまで初夏から夏頃にかけて訪れることが多かったためか、緑の葉がない頭上に一抹の寂しさをおぼえる。しかし一方で、この写真にはたまたま人の気配がないのだけれど、カメラのまわりには初詣や若いカップルなどの人たちが意外と多くいて賑わいもあった。
◆◆◆
僕にとっての京都の記事は、やはりどこか特別な思いがある。最近書いた“宇治の記事”も、noteの“おでかけ 記事まとめ”に取り上げていただけたりもして、とても嬉しい。
しかし、評価される一方で、読んでくれた人が「また読みたい!」と感じてくれるような記事を書かなければ、と焦りにつながっているのもまた事実ではある。
いつしか、僕にとっての理想の記事は、“情報をめいっぱい盛り込んだ記事”という発想になっていた。
しかし、夕飯時に、ふと何気なく彼女にこのことを話してみた。すると、「知識や情報を得たいなら、ほかで調べればもっといいのがなんぼでも出てくる」と返ってきた。
確かに、そうだ。noteはそういう場所ではない。いや、そういう一面もあるのだけれど。それよりも、その時、その場所で、僕自身が何をどう感じたのかを書くことのほうがよっぽど大切で魅力がある。
以前、上の記事にて、「歴史や文化を僕じしんがちゃんと勉強をしたうえで、いまの京都と照らし合わせながら文章として伝えたい」ということを書いた。
その意識が、できるだけ情報を盛り込んでみたり、有意義な記事を書くために写真をたくさん載せてみたり、というような安易な思考につながるのかもとおもった。それが悪いことだとは言わないけれど、彼女の言葉を借りるのならば、「京都の記事とは言いつつ、所詮は日記の延長線上にある」ということだろう。
生活の一部に“京都”があることのありがたみを噛み締めつつ、これからも京都を舞台に、楽しくゆるやかに書きつづけたいとおもう。
僕の記事をここまでお読み頂きありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 頂いたご支援は、自己研鑽や今後の記事執筆のために使わせていただきます。