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僕たち夫婦が3ヶ月間チームコーチングを受けて、受け取ってきた価値。

私たちは、チームだ。




1/20に初回を受け始めて、4/28に4回目を受け終えた宮本さんによるチームコーチング。

僕たち夫婦が受け取ってきた価値と、この3ヶ月間の歩みを振り返ってみたい。




チームコーチングを申し込んだ背景


2023年の12月。


「組織で働くことにもう一度チャレンジしよう」

そう決めて、1ヶ月も経たない内に就職先が決まった年の暮れを過ごす中で、「また大きく暮らしが変わる」ことへの期待と不安とが、立ち込めていた。


宮本さんの「チームコーチングのモニター募集」の発信に飛びついて手を挙げて、妻と二人で受けさせて頂くことに。


僕が主夫となって暮らした1年半の間に出来上がってきた家族チームでの役割分担や関係性が、僕がフルタイム・出社する形で働き始めることをきっかけに、変じていくだろうことを確信していた。


僕が適応障害となり、休職に至った背景は、「新しい挑戦」を重ねがけしたことによる休みのなさと、自分が自分に及第点を出せるだけの成果の出なさ、キャパシティを超えているのに「もっと頑張らなきゃ」と立ち止まれなくなるような重圧にあったように思う。


「休職からの社会復帰」自体、僕にとっては初めての経験。働き始める業界も未経験。リモート前提で働いてきた昨今、リアルな場で生身の人たちと接して働くのは5年ぶり。「大人の手と目が4人分あっても、余裕がたっぷりある」とは言い難い子育て環境。


また「初めて」が重なるし、僕一人分が平日の家事育児にほぼ参画できなくなることへの家族負担が増大することへの恐れもまた、大きかった。


妻にとっても、フルタイムで働きながら、物理的に僕がずっといない環境で、子どもを幼稚園に送りに行ったり、お風呂やご飯のことを考えたり、義実家で義両親と協力しながら日々を営んでいく不安は大きかっただろうと思う。


「チーム家族」で向き合っていく必要がある、大きな変化の訪れが決まったのが、この12月だった。


4月までの3ヶ月を過ごすにあたり、「なるべく変化に対してソフトランディングしたい」という願いを抱えながら、いかに過ごすべきかの指針を持ちたかった。まずは夫婦で。


渡りに船のチャンスだと感じて、妻に伝えて、宮本さんにチームこチームコーチングをお願いすることにした。





初回(1/20) 『オリエンテーションとテーマ決め』


初回を終えた感想



セッションに先立って


「今回の期間で期待すること」を事前に考えてきて欲しい、ということで、妻と話した。

妻がまとめてくれた資料


ほとんど妻が描いてくれてたな、そういえば。

結婚以来、ずっと妻は主語が「私たち」だったんだよな、ということを改めて思い返している。


僕は僕の心身に刻まれた「傷つき」からくる本能なのか、「目下の変化への具体的対処・適応」ばかりに目が行きがちだったように思う。


チームコーチングについて


「二人以上を対象とするコーチング」。


特徴的なのは、参加者一人一人に加えて、「チームという人格」も捉えていくこと。

今回でいえば、「僕と妻」を一人の人格として、二人の間に現れてくるもの、にもスポットライトを当てて頂いた。


より詳しくイメージを持ちたい方は、ぜひこちらのラジオ放送を聴いていただければと思う。

アプリでバックグラウンド再生をしたい方はこちら


初回で語った「夫婦のテーマ」と、僕にとっての「壁」


妻は「中長期のビジョン」を、僕は「4月からの暮らしに適応するための3ヶ月間の暮らし方」を、関心ごととして挙げた。


チームとしての夫婦が、将来をどう過ごしたいかを思い描いてから、逆算して目下のアクションを見ていこう、ということになった。


「せっかくなので、今日も一つ二人の中でホットなテーマを挙げてみよう」


ということで僕が挙げたのが「移住」だった。



子どもがハイハイをするようになった折、コーチング一本でフリーランスとして働いていた僕の収入が不安定で、「とにかく生活コストを下げよう。子どものためにももっと広い家で住める地域を探そう。」ということになった。


僕の実家が受け入れてくれることになって、地元の群馬に帰ってきて、もう2年半ほどになる。



神奈川・東京で暮らした期間は実に14年。

関わりの深い友達の大半は東京近郊に暮らしていたし、都市部での生活に慣れていた。妻もまた同様だ。


リモートワークを経てきて感じているのは、「リアルで関わること」が仕事に与える影響の大きさだった。


同僚も、お客さんも。仕事において自己実現を追求している妻にとってそれは一つの大きな課題だし、僕にとっても「オンラインだけだと命の情報量が足りない気がする」といった話を宮本さんとのセッションで話していた。


加えて、これは結婚当初から話に上がっていたことでもあり、妻の「人生で体験したいこと」としての海外生活。

北欧の文化圏を体験したい、だったり、語学力を磨きたい、だったり。日本の中だけにとどまらない「住まいたい」の願いがあった。


そういった話が上がるたび、僕は覆い被せるようにNoを返してきた。

「せっかく生活コストを下げて生きていかれるようになったのに」「日本語が通じる場所で暮らしていたい」「海外で暮らしたいと思う魅力が僕にとっては特にない」みたいな。


今思い返すと、「足元が揺らぐ」ことへの過度な恐れだったのだと思う。「暮らしを成り立たせる」ために、お金のことや仕事のことを毎日毎日考え続けていたフリーランス期間の「のっぴきならないプレッシャー」が、僕をリスクから遠ざけたがっていた。


でも、この初回のセッション内で僕がこの件を口にした時、いつもの「恐れ」「防衛的」な質感を、あまり感じなかったのだった。「絶対に嫌だ」という拒絶感覚はなりをひそめ、「もしかしたらそんな未来もあるのかもね」と開かれた感覚があった。


二人だけで話している時には対立的になりがちだった話題の筆頭のこのテーマも、宮本さんがいる場で口にできたことで、幾分かフラットに語れたのかもしれない。




2回目(2/11) 『僕らが出会った意味と神話』


2回目の翌日


僕と妻とこまーとで、僕の新しい職場への道を辿ってみることにした。

そして、食洗機を見繕いに。


関係性の意味を問う

僕らの人生のテーマとして、「ホールネス」「楽しもうぜ」「アホ散らかす」といったキーワードが出てきた。

「お二人が出会った意味とはなんでしょう?そこに神話があるとしたら?」


妻と出会ったばかりの頃のことを、思い出す。


初めてのデートの時に妻から問われた「人生の目的」に、僕は「楽しむこと」と答えて意気投合したのだったな。


このセッションの頃の妻は人間的・人格的成長にアンテナが立っていて、「光も影も統合した世界観」としてのホールネス(あるいは、全体性)の追求を、僕たち夫婦の北極星として見出していた。


ここしばらくは結構、地に足をつけるための話になることが多くて(僕の恐れだったり、妻の恐れだったりに起因するのだろう)、純粋に「楽しそう」「楽しむ」だけを追求していくようなアイデアを語る機会は減っていたようにも思う。


そして、僕が一番自然体で在る、「妻やこどもといるとき」に発露されているのが「アホ散らかり」な側面。


この在り方が、あるいは分人が、生活場面のいろんなところで顔を出せるようになったらいいなという話になった。「その顔を出せない」というところに、僕のエッジがあるのだろうし、きっとそのエッジを超えた先にある景色は、より僕が自然体で生きやすい居場所が拡がった世界のはずだ。


妻と子どもと出掛けて帰ってきた時分にはへとへとだったのだけれど、それでも「夕方以降にやるべき家事」を、二人してモクモクと進めて行けるようになったな、「これは成長したよね」なんてことを再確認した日でもあった。


「二人で一つの有機体」である感覚、もはや一つの命として暮らしているのではないんだよな、という感覚を、よりはっきりと感じた。


それは、この2回目のセッションを通じて、互いが互いの歩みの歴史を、明確には言葉にされてこなかった歩みを、描いて受け取りあったからだったのかもしれない。


僕が妻との結婚を決めた理由は、同棲を始めてから程なく、妻が静養のために実家に帰っていた数週間の間に、「この人がいない暮らしは不自然だな」と感じていたことだった。


思えば当時から、この「一つの有機体感覚」は芽生えていたのかもしれない。



3回目(3/17) 『ロードリーム(Low Dream)と、”在る”を観ること』


3回目の振り返り


結構しっかりと、記事に残していた。

妻と昨日カフェで話していたとき、僕らの「目線」がズレていることを、再認した。


2回目と3回目の間の1ヶ月の間にあった大きな出来事。

母が、交通事故に遭った。


これまでも4月以降の暮らしの話を父母と話していた際には、幼稚園を終えたこまーの世話を母が担ってくれるということだったこともあり。


母が「いつ退院できるか」「車を運転できるようになるのか」「どのくらいの期間で骨が治るか」も見えない中で、「どうやって暮らしていくか」を描き直そうとしていた。


一命を取り留めてくれたこと、重たい後遺症に見舞われなかったことの喜びと安堵、それも束の間で「母が家にいない中での暮らし」自体も、こまーや僕らにとっては既に新生活で。


僕の「暮らしを守りたい」本能はひっきりなしに顔を出してこようとするし、妻もプレッシャーを感じていただろうと思う。



ロードリームを語る


「こんなことが起こったら嫌だな。困るな。」な未来をあえて語ってみよう、ということで、僕が語り、妻が語り、過去の対立が表面化したり、受け取り合えていなかったことを確認しあったり、改めて手渡しあったりする中で、僕も妻も、セッションの中で声を上げて泣いた。


お互いが歩み寄って成り立っている妥協点。

でも、願いに対しては「妥協」だから、「十全に叶えたい」と思う願いが感情的な反応を連れてくる。

他方で、「努力して譲歩」もしているから、「不満だ」という声に対してもまた感情的な反応が現れる。


お互いが、頑張っている。お互いが、努力している。叶っている部分と、叶っていない部分とが、ある。まだまだゼロサムゲームになってしまっている領域。


「こんなに頑張ってきたのに、それを無碍にされているように感じて悲しい」

「こんなに諦めてきたのに、この先もまた諦めるのと思うと、辛い」



きっと二人だけで話していたら、対立の矢印が互いを向き合って、留まってい続けることは難しかったであろうテーマ。


宮本さんの関わりで、「確かに在る、在ったのに見えなくなっているもの」が、見えるようになっていく。


それは、自分から見えている相手の努力だったり、歩んできた成長だったり、それに対する感謝だったり。

「在るのにないものになされている」悲しみ、「在るのに受け取れていない」悲しみ、実は「欲しいと願っているものは互いのすぐそばに在り続けている」のに、そこに光が当たっていないことにより起こる対立。


僕と妻との話はそこから、僕と僕自身の話だったり、僕と原家族との話だったりに拡がりながら、これまでの歩みの中で経験してきた葛藤、対立、衝突と、目下の期間の中で立ち現れてきた変化の兆し、希望、願いをあきら明らかにしていった。


エッジの只中に、在った。



4回目(4/28) 『熱気球と燈ノ樹(HINOKI)』


4回目を経た音声


このnoteを書いている日の朝に録った声。

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僕たちの変化

4月が訪れ、ずっと「不安」を抱えてきた「新生活」を1ヶ月、暮らした。


家族の助けのおかげで、僕は僕の新しい仕事を、楽しめている。毎日へとへとになりながらだけれど、充足感を感じている。妻の目から見ても、「心の奥底からある願いが満たされて嬉しそう」とのことだ。


妻から見える、僕の在り方の願いは「世界樹」的なものらしい。

世界に根ざして確かにそこにあり、肥沃な生態系を支える存在。生き物たちの訪れを、触れ合う日々を、喜んで生きたいという願い。


「命の情報量」という話を思い出していた。


僕が今、日々関わる人たちの数は、数十人(シーンによっては100人以上)となったのだった。しかも、生身で。リアル空間で。

人の人生物語に触れて生きていたい僕の「源の願い」は、その環境自体に、充足しているのだろう。



宮本さんがそんな僕の語りに見出して下さったのは、「自分の頑張りの話より先に、家族の支えの話が出てきた」ことだった。

僕の今の仕事は、暮らしは、家族の支えなしでは全くもって成り立たない。妻は今までよりも早起きして毎朝おにぎりを作ってくれ、こどもに朝飯をやり、送っていってくれて、仕事が終わった後のご飯やお風呂を担ってくれるようになった。


父が毎日のこまーの迎えに行ってくれたり、退院した母は帰宅後のこまーの世話だったり、僕たち夫婦に美味しいご飯を用意してくれたりしている。


毎日へとへとで、帰りの電車やお風呂の中で気絶するくらい体力気力を目一杯使い果たして生きている僕にとって、僕の暮らしは僕だけでは全く持ってなり立っていないのだ。


加えて、職場も同様だ。

同僚に、生徒に、システムに、恵まれていることを日々実感する。

「僕一人だけでできることなど、何一つない」と当たり前のようにセッションの中で語ったのだけれど、これまでの僕からすれば、そんな状況は「命が脅かされるほどの恐怖」でしかなかったはずだ。


「(一人で)できない」自分、「頼れない」自分、というのは、それくらい、僕の中で致命的で重大なテーマで在り続けてきた。


休職期間の中で、僕が向き合い続けてきたのは、この「(一人で)できない」ことと向き合うこと、それでも生きていかれることを知ることだった。


そうして、「社会復帰までの過渡期」を暮らした後の世界を、「社会復帰そのもの」に接続した1ヶ月を、僕は、僕たち家族は、生きた。


妻との毎週のカフェでの振り返りの中で、僕は僕に「この1ヶ月を暮らせたことを、誇りに思う」と自分に賞賛を贈った。すごいよ。リハビリにしては超ハードなチャレンジだったよ。


「世界で一番僕を認めていないのは僕」だった頃からすれば、そんな在り方をできているのは、別人の人生に輪廻転生したかの如くだ。


このセッションの中で妻は、僕の変化を、フィードバックし続けてくれた。そうして、自身の頑張りを、自然体で語れるようになっていた。


これまでの僕と妻との関係性の中で互いが担ってきた役割を、これまでとは違う形で、担い在っていることが発露した時間だった。


そう、宮本さんからフィードバックを頂いた。



執着し続けた、「暮らしの安定性」という概念の手離れ。その萌芽。


「願いにたどり着くための変化」を、次々と暮らしに取り入れ、重ねがけしてきた果てに、立ち行かなくなった僕の心身は、休職期間で得た「安寧」を、大事に大事に抱きしめていた。


暮らしぶりが変わってしまうこと、家族間の役割や負担が変じてしまうこと、それによってかかるストレスや顕在化してくるであろう対立への恐れ。

それらに対処することですり減り、傷つき、また眩暈に見舞われ立ち上がれなくなることへの恐怖。


だから僕は、「変化」を嫌った。

リスクや挑戦を、遠ざけた。

「もう既にできることだけで成立する暮らしを守る」ことに、躍起になった。


でも、そう言っていられない未来を、僕は12月に招き入れていた。


セッションの中で宮本さんから投げかけられた、「今の僕たち」が生きる中長期の未来の姿。


僕に浮かんできたのは、熱気球のイメージだった。


堅牢な大地から、軽やかに空へ


この1ヶ月を暮らして感じたのは、暮らしが変じる中でも、「恐れていたような災厄」に囚われるわけではない、ということだった。


僕がずっと感じていた重力は、和らいでいるように思える。


そして、中長期の先では、より。もっと。軽やかに。



「楽しんで生きる」の具体化

妻が遂げた個人的な変容は、「外界」における評価の絶対視を手放しつつあることだった。

自身を支えるものを、足場を強くするものを、「獲得」することを目指して努力すること。そこに大きな価値を置くこと。それは、仕事だったり、社会的地位だったり、所属組織だったり、年収だったり。


そういった事柄への囚われから自由になる歩みを経ながら、「内側」で大切にしたいものたちを直視し、「今ここから既に満たしていける」生き方を選び、それを体現することだった。


「叶えたい理想」があり、そこに向かう過程では、「叶わなかった現実」は自己否定に繋がりやすかった。「理想」を絶対視する価値観は、同時に苦しみを大きく伴っていた。


「訪れた状況、シーンにおいて、自身がいかに生きるか」を大切にしよう、「理想とはかけ離れた事件」も、「だからこそ、最高の今になった」を叶えると「決めて」挑戦してきた妻のこの数ヶ月は、妻の人生観をよりしなやかなものにしてくれたようだった。


僕自身においても、今の仕事は「自転車操業」の連続、なのだけれど、日々たくさんたくさん訪れるイレギュラー、予想をはみ出て配られたカードで、いかに日々を佳いものにしていくか、というゲームをプレイしているようだ。


そして、それを「ゲーム」として捉えて、「楽しもう」とする余地が生まれうるのは、「自身が、いかに生きるか」を、選んでいける、というだけのエフィカシーが育っているからなのだと思う。


その裏打ちとなるだけの経験と、能力と、そして「僕一人ではなく」支えてくれる人たちとの豊かな繋がりへの、信頼があるからなのだと。



大地にへばりついて、変化を恐れ嫌う「暮らし」から、熱気球となって、空を飛んでいけるような軽やかな「暮らし」へ。


風や、天気や、気流や、より不安定で不確実な変化に出会い続けてもなお、その離陸を喜べる僕らへ。


そんな変化を、受け取ったように思う。



宮本さんから、「熱気球」のモチーフの中での僕らそれぞれの役割を尋ねていただいた。僕はバケット部分。気球に浮かせてもらって、運ばれていくことに身を委ねられるポジション。

妻は、火。気球を浮かせるためのあれやこれやを、体当たりで叶えてくれている存在だった。


僕が数年前から温めているコンセプトに、「燈ノ樹(HINOKI)」というものがある。当時は、僕の中にある動的なエネルギーが燈(ともしび)で、静的なエネルギーが樹(き)であると捉えた、「僕個人」の全体性として考えていた。


だけれど、「世界樹」で在りたい、「とまりぎ」の僕と、エネルギーを煌々と動力に変えて挑戦し続ける「ともしび」の妻との二人で、熱気球を形作るのだ、という映像を見て、僕たち二人で「燈ノ樹(HINOKI)」なのだな、と感じたことを、とても嬉しく思った。


二人で一つの有機体感覚は、熱気球のイメージに結実した。

そして、「次々と訪れる変化を、引き受けながら、楽しんで生きていく」という質感が、僕たち二人が出会った意味である「人生を楽しむ」を、より具体的にしてくれたように思う。



僕たちが受け取った変化(価値)


4回のセッションを振り返りながら、その時々テーマとして掲げてきたこと、向き合ってきたこと、都度の宮本さんのチームコーチとしての関わりにについて、述べてきた。


僕も妻も、個人として成長した部分が、確かにある。

そして、これらの変化はおそらく、それぞれ個々人だけでは得ることのできなかった変化だ。


家族に、同僚に、生徒に、システムに、たくさんの人たちとの関わりに支えられていなかったなら、僕は僕の「(一人で)できない」エッジを乗り越えることはできなかっただろう。


「病気になってしまうかもしれない」くらい、しんどい出来事と理不尽に見舞われた妻も、自身の視界に張り付いた価値観・世界観を語り、向き合い、足を踏み外して落ちてしまわぬように僕や、家族や、信頼できる同僚や、子どもの存在ととの関わりがなかったなら、もっと時間がかかっていたかもしれない。


『デュアルキャリア・カップル』の、「第二の転換期」の中で語られていた、「カップル相互の心理的役割の変化」を、まさに果たしてきた3ヶ月だったんじゃないかな。そしてこれも、一人では成し得ないことだ。


対立に留まり、対立を越え、新しい役割と価値を見出し、希望と自信と頼もしさを持って、プロセスに身を委ねる強さを、チームとして得てきた。


僕たち夫婦がチームコーチングから受け取った価値は、「僕たちなら、大丈夫」という、そんな「これから生きていく未来へのチームとしての確かな効力感」なのかもしれない。



宮本さん、ありがとうございました!





ここまでお読み頂き、ありがとうございました!


どこか「仕方ない」と自分の生を諦めていた僕が、人生を取り戻したのは、自分の願いを知り、これを指針に生きることを選び、行動を重ねてくることができたからだなと実感します。


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