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祖母の愛

こんばんは。マリアです。
この記事を読んでくださってありがとうございます。今夜も意識の変化系のお話をしていきたいと思います。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

(※前回の記事の続きは、こちらの次にまた書かせていただきます。)

さて、今日のテーマは何かというと…

『私がいけないんだ』という観念です。
つまり、自己否定というやつです。

これが、最初は些細なきっかけだったと思いますが、なかなか外れない長期的なテーマになっていきました。

後々お話しますが、私は10代、20代を通して、
人前で心から笑えない、普通に自然に笑いたいといつも思っていました。

人前でうまく笑えないという意識がほぐれたきっかけは、3.11の震災の際の瓦礫撤去のボランティア仲間との出会いです。
その当時の皆にとっては特に大きな出来事ではなかったかもしれないけれど、
瓦礫撤去に汗を流し、十分な食事も取れないまま東京に帰ってきて呑んだ皆とのお酒の場で、
私は中学依頼初めて初めて友人の前で心から笑えました。
あの時出会えたメンバーは本当に最高すぎて感謝です。

はい。

話を中学時代に戻すと…
その当時、私立の中学に入学した頃の私は、ある子から強烈な執着と嫉妬を受けはじめました。

表面的には親しくしてくれるけれど、なんとなくその子が気に入った子以外は差別され囲い込まれている感じがしていました。
そして入学して早々に、別のクラスで親しくしていたAちゃんがいじめにあうようになり、私がAちゃんと仲良くしていると、その子と話さないで!と言われたり、他の友達に私の陰口を言うという、なんとも謎な謎行動勃発で、正直、訳がわからず振り回され参ってしまいました。

このことがきっかけで、なぜか全てに嫌気がさし『私がいけないんだ』『私がいなくなればいい』と心の中で唱え始めたんです。

そんなことがきっかけで?
と思う方もいるかもしれませんが、私はとにかく争い事が苦手で、自分を否定することで輪を取り戻そうとしました。きっと障害を持つ兄がいる家庭環境もそうさせたのかもしれません。

自己否定をし続けると、最初は場を治めるために良かれと思って始めた呪文も、次第に定着していってしまい、今度は気づいた時には外すのが大変になっていました。

というのも、自己否定は自己不信感につながり、他者の不信感へと拡大してしまったからです。
心許せる人の中でないと気が休まらない、気疲れする、そんな感じです。

中学でいじめをしていた子たちや嫉妬ガールは、高校になると色気づいて可愛らしいお花になっていました。
とにかくその裏表のギャップに、『女って怖いな』という呪文も加わりました笑

おそらく、それが、人前でうまく笑えないという根深い葛藤を深めたきっかけだったかもしれません。

その頃、時代はビジュアル系ブーム。
堂本兄弟に出ていたGACKTのファンになり、クラスメイトに話すと、かなりマニアックなビジュアル系ファンの子からいろんなCDを借りるようになりました。

そして、当時私の心に刺さったのが
DIR EN GREYというバンド。

なんでまたDIR EN GREY…てなりますが、本当に絶望している時って、絶望している曲のほうが癒されるの、なんででしょうね。

他にもいろんなアルバムを聴いて、よく部屋でチーンとしていました。
普段は全然違うジャンルの音楽を聴いていたし、好きだから聴いているとかでもなく、当時の自分にとって、それくらい絶望感がある音楽でないと癒されなかったんだと思います。

そして時は経過し、大学入学前まで進みます。
母方の祖母が長期入院をしていて、久しぶりにお見舞いに行った日のことです。

到着してすぐ母と叔母が荷物を置きに出たので、
兄と私は祖母を病室で見守っていました。
ものの5分くらいの出来事だったと思います。

静かに休んでいると思っていた祖母でしたが、目の前で息を引取っていたことを帰ってきた母の血相を変えた様子で理解しました。

あれよあれよという間に祖母の葬儀になり、火葬で骨になってしまった祖母をみて
叔父さんに抱えられながら泣き崩れました。

それまでも葬儀や人の死を何度か経験していたのに、物心ついてからは初めてだったからか、
死ぬことで肉体がなくなることを実感として痛烈に味わう機会になったのです。

祖母の亡骸を前に稲妻に撃たれた感覚に陥り、
『あぁ生きなきゃ、人はいつか死ぬんだ』と
目が醒めた気分になりました。

自己否定していた自分を顧みて、心の底から
何やってんだ…生きなきゃ…という焦燥感に駆られました。

孫の中で一番歳下の私と兄の目の前で亡くなった祖母。
命をもって生きるのが不器用な私の背中を押してくれたのかな、と思い出すたびに目頭が熱くなります。

自分も人もなかなか信じられず暗闇に覆われていた心に光が差し、情熱の炎が熱く燃え始めました。
そして長年唱えていた『私がいけないんだ』『私なんていなくなればいい』は燃え尽くされたのです。

ここまで読んでくださった方、長文お付き合いありがとうございます。

このお話の肝は、 
『命の大切さ』でははないかと感じています。

死というのは必ず訪れるものですが、なかなか実感しにくいものでもあると思います。ですが、突然身近な人が亡くなるという体験は、急速に死を意識させるきっかけになりますよね。

皆さんには心から大切な人、家族はいますか?
また、誰かにとってかけがえのない大切な存在ですか?

一生の間に出会える人は限られていますが、その中でも、心から大切に思える存在に出逢えると幸せですよね。

誰か他の人でなくて、そう、自分自身。
自分を心から大切にする。
全ての調和の出発点はそこからだと思います。
自分を大切にすると、大切な人が周りに溢れてくる。不思議と輪が広がっていきますよね。

もし、生きづらさやしんどさを抱えていたら、私からエールを贈ります。

あまり自分を追い込まず、絶望に落とし込みすぎず、労っていきましょう。

たくさん苦しんだことは悪いことではないと思います。人の痛みが分かりますよね。

この世界は表裏一体と言いますが、本当にそうだと思います。

苦しみの中に必ず光があります。

一番しんどいことが、一番望んでいるメッセージを教えてくれます。

大変な経験が、人生を大きく好転させるきっかけになります。

きっと、そんな裏表のコントラストを通して、
私たちは突き動かされ、拡大し続けているんでしょうね。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
素敵な夜になりますように。

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