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濱口竜介監督の新作映画の結末は暗示的⁉️「悪は存在しない」

映画(悪は存在しない)(ネタバレありです)

濱口竜介監督の新作映画は、ベネチア国際映画祭で銀獅子賞受賞の話題作です。オープニングは森を見上げるカメラワークと重厚な音楽から始まり、次に主人公の男性が雪に覆われた自宅の庭先で薪を割るシーンが続いて、寡黙な映像が流れます。
これまで観てきた同監督の「偶然と想像」や「ドライブ・マイ・カー」などと比べるとひたすら寡黙で、見ている方も戸惑う程です。その後もしばらくこういう展開で、もしや作風を変えたのかと見続けていると、中盤からちゃんとメリハリをつけた展開になりました。

主人公が住む長野県の雪深い山村で、開発業者によるグランピング施設開設のための住民説明会が開かれますが、その杜撰ともいえる計画内容に住民の疑念や不満が噴出します。こうして住民と開発業者との対比、そこからの対決が描かれる訳ですが、ただこの映画の主題は、そうした単純な両者の対決ではないのは理解できます。

グランピングの計画地が鹿の通り道であることを主人公が、開発業者に説明します。さらに鹿は臆病なので人を襲わない、ただし手負いの場合を除いて。傷ついていれば襲われる前に襲ってくる。計画地に柵を設けてはどうか、通り道がなくなったら鹿はどこへ行くのか、どこか別の所へ、などの問答が両者の間で繰り広げられますが、これがこの映画の主題ではないかと考えました。

主人公が思うのは、鹿の通り道は本来あるべき自然そのままの姿であり、柵の設置などの対処法ではないもっと基本的な概念ではなかったかと思います。開発業者(元々は芸能事務所ですが)の担当男女2人も、この計画に対する相当の葛藤を抱えています。

ただラストはかなり暗示的で、よもやここで終わってしまうのではと疑念を抱いていると、予想通り終わってしまいましたが、個人的にはかなりの消化不良というか理解不足で、もやもやした余韻が残ってしまいました。
こうしたはっきりとした結論を出さないフェードアウトする結末は、かつてのATGの芸術系映画が多用した手法で、個人的にはこれはある意味日本映画の悪しき伝統ではないかと勘ぐりたくもなります。そういえば同監督が脚本を担当した「スパイの妻」も、同様のエンディングだったように記憶しています。

雪深い山村にある鹿の通り道に集約される象徴性、最後に登場する手負いの鹿の具象性、さらに「悪は存在しない」というタイトルの抽象性。自然の摂理に人間が抗わない限り、悪は存在しないという暗示なのでしょうか。様々な解釈や深読みが可能かもしれませんが、個人的には鑑賞後の率直な印象を優先したいと思いました。(写真は公式サイトより引用しました。)

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