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【障害年金】病歴・就労状況等申立書(ADHD 注意欠陥多動障害)

一例として、私が2019年03月に障害年金の申請を行った際の申立書を載せる。
普通は役所や社労士などを頼るものと知らなかったので、おおむね独力で突破してしまった。性同一性障害と抑鬱の治療で自分史を書いた経験を活かした。
診断名は3つで、初診は解離性障害、20歳当時は性同一性障害、申請時は注意欠陥多動障害。それぞれエピソードをもりもりに盛り込んだ。
内容が不足してのリジェクトだけは絶対に嫌だったので、これでもかと書き連ねた。確か、これを別紙としてA4プリント4枚綴りで添付したはず。
加減は今でもわからない。そのため、参考になるかは保証できない。こんなに長く書く馬鹿もいるのか、程度がいいかもしれない。
過去にnoteで公開している病院名などは伏せていない。

注意: 抑鬱や自殺企図、パワハラに関する記述があります。調子のいいときに読んでください。


H14 / 2002.04 ~ H20 / 2008.03 小学 受診していない

4歳のときに両親が離婚して以来、親ひとり子ひとりの母子家庭で育った。
小学校入学から卒業までを学童保育へ預けられ、放課後や休日に友達の家へ遊びに行くという経験をしたことがなかった。テレビ・新聞・雑誌・漫画・ゲームなどが家になく、世間や流行から隔絶されていた。そのため、周囲と話題を共有できないのが当然で、なおかつそれに不便を感じていなかった。また、人間関係に関心がなく、そもそも困ったり悩んだりしなかった。
何でも先延ばしにしがちで、夏休みの宿題は最終日に泣きながら片付けていた。日頃も忘れ物やケアレスミスが多く、週末に上履きを持ち帰るのを忘れて学童の帰りに取りに行ったり、細かな計算の誤りで満点を逃したりすることがしょっちゅうだった。整理整頓ができず、お道具箱やロッカー、自分の部屋などは常に散らかっていた。
洗濯機や掃除機の音が苦手で、母が掃除機を使い出すたびにトイレへ逃げ込んでいた。
性別違和は、双子の弟——会話はなく、ずっと一緒で、そこにいて当たり前の存在——というイマジナリーフレンドとして処理されていた。疑うことも気に掛けることもせず、無意識に認識していた。

H20 / 2008.04 ~ H23 / 2011.03 中学 受診していない

月経の開始、乳房の発達、体型の変化といった二次性徴が始まり、身体への違和が増大した。男女別の制服ではなく男女共用のジャージでほとんどの時間を過ごす校風で、性役割などへの悩みは少なかった。
TPOに応じた言動が苦手で、しばしば"不思議ちゃん"扱いをされていたが、特にいじめられたりなどはしなかった。素行や成績は良好だった。
中学3年の頃、"弟が姉の身体を動かしている"と状況(実際は認識)が変わった。しかし未だ性同一性障害であることには気付かなかった。高校受験の忙しさで、深刻に考える暇もないまま毎日が過ぎていった。

H23 / 2011.04 ~ H23 / 2011.11 高校 受診していない

高校へ進学して間もなく、体調と生活が崩れた。朝起きられず電車へ間に合わなかったり、授業中にも関わらず眠ってしまったり、提出物の期限が守れなかったり、食事が摂れずに弁当を残したり、たびたび些細なことで泣き出しては困惑されるようになった。
校風と男女比が性同一性障害(自覚なし、違和のみ)を顕在化していた。自分の身体が女性であることによって、自分が女性の性役割を与えられているという事実に、多大な苦痛を感じていた。女子用制服を着て通学することに強い抵抗を覚えていた。長い髪が嫌でショートボブにしたが、とても女の子らしくなってしまい、すぐにベリーショートまで短くした。
授業についていけず成績はガタ落ちし、 1学期終業式に散々な成績表を受け取った。自分が社会適応できない人間であることは分かっていたので、前々から生涯をアカデミアの中で送ろうと考えていたが、母から学費は出せないから自分で稼いでくれと常々言われていた。その第一歩である高校の奨学金が受けられなくなったショックと絶望のまま、夏休みを迎えた。ろくに課題もできず、茫然としたまま増していく自己嫌悪と抑鬱と希死念慮に蝕まれていた。カーテンを閉じ照明を消したままの暗い部屋で、ずっとベッドから動けずにいた。夏休み中に開かれた学習合宿へは重い身体を引きずるようにして参加したが、ただ机に向かっただけで時間が過ぎていき、持っていった課題を全くの手付かずのまま持ち帰った。
2学期始業式の朝、登校を拒否し、母に却下されたため自殺用の包丁を携えて家を飛び出した。炎天に挫けて1時間ほどで引き返した。そのまま不登校、引きこもりになった。食事や洗面、入浴、睡眠といった日常生活がまともにできなかった。冷蔵庫とトイレまでを往復し、ベッドに篭り、特定のアイスクリーム以外何も食べられない日々を過ごしていた。

H23 / 2011.11.12 A病院(初診)

心配した母が精神科へ連れていった。自分の不調を告げると、まずは睡眠を取れるようになることと言われ、眠剤を処方された。しかし、治療方針や処方された薬に不信感を抱いた母が受診を中止させた。以降、別の病院やカウンセリングへ連れられたが、自分が感じているものを上手く言葉に表せず、どこも継続した通院は行わなかった。

H24 / 2012.01 ~ H26 / 2014.06 受診していない

抑鬱、不安、記憶が保たない、過眠、全身の痛み、倦怠感、不快感、落ち着かない、失見当識、重い月経、PMSといった不調があった。

H24 / 2012年 / 16歳

自殺することを考え続けていた。
「自殺には、その理由が明確に記された遺書が必要である」という強いこだわりがあった。そして、死にたくてたまらないが、その理由を自分自身が理解できていないと気付き、遺書を書き上げて死ぬために理由の解明を始めた。やがて、苦悩の根源のひとつが性別への違和感であると気付き出した。
眠気に耐えられなくなったら寝る、空腹に耐えられなくなったら食事を摂る、自分の体臭に耐えられなくなったら入浴する、といった風に、自分が行うべき生活を先延ばしにしてばかりいた。
1人で玄関の外に行けず、母に同伴する形でしか外出できなかった。人前で立ち居振る舞ったり親族と会話したり男女別の礼服を着ることに耐えられそうになかったので、法事すら休んだ。
普通の日差しでも奇妙に眩しく感じるようになり、カーテンを閉じっぱなしにしたり、日中の外出を嫌うようになった。

H25 / 2013年 / 17歳

高校卒業程度認定試験を受け、合格した。高認のための勉強は、高認合格用の薄いテキスト1冊だけを集中して解くことで心理的負担を減らしていた。そのまま、進路相談を行ったり模試を受けたりして、大学受験へと動こうとしたが、勉強へ全く身が入らず、立ち消えになった。大事な用事があれば1人で外出できるようになったが、その後は強い疲労感で数日寝込んでいた。日常生活は、母の支えの元辛うじてできていた。
高校の休学期間を使い切り、復学か退学かを迫られた。高校生活に戻りたいという思いはあれど、心身ともに通学できる気がしなかったため、退学を選んだ。

H26 / 2014年 / 18歳

母に学費を出してもらい、教習所へ通って自動車免許を取得した。月経と通学が被らないかと常に怯え、入学日を2回ずらした。座学は上手くできたが、路上教習では、上手く周囲に気を配れない、信号や歩行者などを見落としかける、といった不注意症状を実感した。人に会ったり新たに学んだりし続ける通学は体力と気力を要し、帰宅しても倒れるように寝てしまい、夕食を食べ損なったりした。休日も寝込んでしまい買い物に行けず、母に任せていた。

H26 / 2014.07頃 Bクリニック

自分が性同一性障害と確信し、地元の心療内科から紹介状2枚を経てジェンダークリニックを受診した。しかし、先生との相性の悪さや、セクシャリティの言語化の未熟さによって、治療は進まなかった。
母に、自分が性同一性障害であること、身体を男性にしたいことを改めてカミングアウトした。「あなたの人生なんだからあなたの好きにしなさい」と、良く言えば肯定を、悪く言えば無理解を得た。
抑鬱と希死念慮が酷かった。生活の困難さと展望の暗さに、死ぬことばかりを考えていた。ゲーム・ネット・アニメ・過食・白昼夢などに逃避し、自分の身体的性別から意識を逸らし続け、どうにか生きていた。通院時以外、家はおろか部屋からも出ないような生活を送っていた。食事は母の作ったものを食べ、3日に1度くらいのペースで入浴していた。
高校退学後、離婚した父からの養育費のうち大学進学用に残してあった分を母から譲り受け、親族から小遣いとして貰って貯めていた貯金と合わせ、通院費に充てていた。生活費全般は現在に至るまで母に出してもらっている。
受診回数は月2回ほど。

H27 / 2015年 / 19歳

減っていく貯金に焦り、近くのコンビニの求人へ応募した。履歴書の性別欄を見るだけで泣き出してしまい、なかなか書き上げられなかった。面接後連絡が来ず、それきりとなった。
外出もままならないほどに月経が重くなり、C病院にて治療を開始した(03.31)。低用量ピルを服用し、症状が多少改善した。しかし、性同一性障害の治療を進めて男性ホルモンの投与を受けるために女性ホルモンを服用するという本末転倒さに、常に気分が暗かった。処方された薬は2種類とも合わず、しばらくして服用と治療を中止した(07.01)。
外出時の眩しさへサングラスで、苦手な音へ耳栓で対応するようになった。
性同一性障害の治療が進まないことに苛立ち、Bクリニックへの通院を勝手に中止した。

H27 / 2015.06頃 ちあきクリニック

新しいジェンダークリニックを自分で探し、通い始めた。
初めてのアルバイト応募で合否連絡さえ貰えなかったショック、低用量ピルをやめたことによる月経困難の再開、この転院先で治療は進むのだろうかという不安などがあり、とても情緒不安定になっていた。毎日が死にたいと思い続けるほど辛かったが、『性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン』の「種々の葛藤や不安に対する耐性が獲得されていて、行動化(衝動的な身体的治療への移行、自傷行為、薬物依存、自殺企図など)や操作(「死ぬ」などの脅しによって周囲を思い通りに動かそうとするなど)をしないことも必要である」という文章に抵触して治療を受けられなくなると考えたため、当時クリニックの先生には希死念慮や自殺企図を一切報告しなかった。
性同一性障害との診断を受け、精神的治療を進めた。
ちあきクリニックへは現在に至るまで通院している。受診回数は月2回 ~ 現在は3ヶ月に1回。

H28 / 2016年 / 20歳

行くつもりは無かったが突然気が変わり、成人式や同窓会に参加した。振袖ではなく、スラックスのレディーススーツを着用した。2次会にて同級生や先生達と食事したが、泥酔している人間を相手にカミングアウトはできなかった。そのまま、全員との連絡を断った。
04月、身体的治療・ホルモン療法を開始した。月経の停止が何より嬉しく、生活の質の著しい上昇を実感した。乳房の縮小、体型の変化、変声といった望む身体への移行に喜んだ。一方で、 食欲や性欲の亢進、代謝の増大、嗄声、気性の変化、肌荒れなどの副作用に悩まされた。
性別移行中の身体をじろじろ見られるのが苦痛で、通院以外ほとんど外出しなかった。

H29 / 2017年 / 21歳

02月、通院費と乳房切除術のために金策すべく、家から徒歩10分の飲食店にてホール・キッチンのアルバイトを開始した。時給850円、週3日・約20時間の勤務で、月に7万前後を得ていた。ホルモンで外見の男性化が進んでいたため、実生活体験(RLE)のこともあり、男性としての扱いを面接時に申請し受理された。抑鬱状態の中で初めてのアルバイトに忙殺されるも、ホルモン療法によって増えた体力と、手術のためというモチベーションで賄えていた。しかし、元来世間話の仕方が分からないので、職場の人間やお客さんと雑談ができず、コミュニケーションが上手く取れなかった。また、"不慣れ"で済まない覚えの悪さに、この職は自分に向いていないのではと思い始めた。仕事中はずっと緊張していて、心拍が高く、身体が熱かった。仕事終わりはくたびれ果て、シャワーと制服の洗濯が済んだらすぐに眠っていた。
お金が貯まったので、ちあきクリニックから紹介された山梨大学医学部附属病院に入院し、乳房切除の手術を行った(09.04 ~ 09.11)。再診で問題はなく、仕事に戻った。紹介頂いた先生へのメールでの連絡や、前泊用ホテルの予約、術前検査のための受診、入院の準備、通院などは、ほぼ全て自分1人で行えていた。駅までの送迎だけ母に頼った。
胸の違和がなくなったことで、再び生活の質の上昇を実感した。身体の外見が大きく男性化し、男子用トイレに入れるようになったので女子用トイレで胡乱な目を向けられることがなくなったり、人から体格をじろじろ見られることが少なくなったりした。
母と職場の人間以外との交流は皆無だった。外に出ることが億劫で、出勤や通院、買い物などの用事がなければずっと家にいた。

H29 / 2017.10頃 D病院

自分が発達障害だろうという自覚は小学生の頃からあったが、生活への大きな支障も金銭的余裕もなかったので医学的対処をしていなかった。しかし、職場で叱られる頻度や痛感する事柄があまりに多かったため、ちあきクリニックから紹介されたD病院を受診し、手術の残金で発達障害の検査を受けた。
言われた事柄を帰宅してからノートにまとめ、自分用のマニュアルを作っていたが、その場でメモを取る時間など欠片もないので帰宅までに忘れてしまい、またマニュアルへ書けたとしてもそれを実地で確認する余裕はなく、同じ間違いを繰り返しては同じ注意を繰り返し受けていた。
「気が利かない」(不注意)
「手が遅い」(作業速度が遅い)
「二度手間」(並行作業ができない)
「やってることの優先順位が違う」「こうと言われたらここまでをセットでやれ」(不正確な判断)
「自分で取った お客さん・注文 くらい覚えていろ」(短期記憶力が弱い)
「あの人は毎週来ている常連さんだ」(人の顔が覚えられない)
「(地元の名門校)を受かったならこれくらいすぐ覚えられるはずだ」(OJTの苦手さ)
「いつになったら仕事を覚えるのか」「(調理補助の手順などを)何度同じ注意をさせるのか」(ミスの繰り返し)
多動のないADHD、ASD疑いあり、との診断を受け、薬物療法を開始した。初めて服薬してシフトに入ったとき、携わる業務の一切が頭の中で見渡せ、会話の転がし方も自然と理解でき、自分の変容に驚愕した。これが健常者の視野であり翻って私の障害なのだと強く理解した。
薬を服用してしばらくは症状が改善し、叱られることも少なくなっていった。そのまま薬の調整を行っていたが、12月頃から、増薬の副作用かまともに働けなくなった。いっとき働きぶりが改善されていた分、周囲からの風当たりが酷かった。検査結果と服薬のことは上司に報告していたものの、理解はなく、「怠けている」「やる気があればできるはずだ」などの指摘を受けた。体調・情動ともに不安定で辛く、どんどんと憂鬱になっていった。通勤路の歩道橋の上から下の幹線道路に飛び降りたい、職場で調理用の包丁を手に暴れたいなどと考え続ける状態が続いた。
02月、派手な失態を3つ4つ重ねた日の後、上司に辞職を相談し、その返答にも傷付いた。そして、"現状からの脱却として死を選択し、より確実性の高い自殺方法を考案し続ける"という状況に陥った。そのため、上司からの連絡を全て遮断し、次の診察日まで全力で現実逃避した。
次の診察日、精神安定剤追加と、減薬の対応を受けた。職場へは母にメールを代筆してもらって辞職の意を伝えた。それが受理された以降は連絡を断った。自室に引きこもって、ゲーム・ネット・間食・読書などで自分をひたすら甘やかし、間欠泉のような衝動と薄く蔓延る悲しみから逃げ続けていた。症状は悪化の一方で、新たに眠剤を処方された。通院で貯金が減り続け、焦りが増える毎日だった。
受診回数は月1回。病院が遠く交通費が嵩むため、薬を処方上限まで出してもらい、通院頻度を下げていた。

H30 / 2018年 / 22歳

時間をかけて薬の調整を行っていた。
抑鬱、無気力、倦怠感、食欲不振、吐き気、発熱、動悸、頻脈、頭痛、悪寒、不眠といった不調が慢性的にあった。また、寝食を忘れるほどの過集中にたびたび悩まされた。気分の落ち込みが激しいときは、"薬を飲む"という対処方法すら思い至れずに落ち込み続けることがままあった。歩くとふらつくようになり、運転が不安で自転車に乗れなくなった。そのため、どこへ行くにも母の車と運転が必要になった。
四つ切りの鶏腿肉、櫛切りの玉ねぎ、コカコーラの瓶、卸売業者のトラック、後輩が乗っていたピンクの自転車、先輩が乗っていた黒のベルファイア、上司の乗っていた白のプリウスといった、就職中に触れた物事から就職中の辛かった出来事がフラッシュバックしてしまい、日常生活に支障をきたしていた。
"学歴なし、貯蓄なし、職歴なし、性同一性障害、発達障害、抑鬱、田舎住まい、運転不能"の8つが主な障壁としてあり、自己肯定感が極端に低く、自分の将来が全く思い描けず、生きていける気がしなかった。
シーツ交換はできても掃除機掛けができない、調理はできても洗い物ができない、買い物はできても下拵えができない、入浴はできても浴室掃除ができない……というように、生活における一連の作業を最後までやり遂げられず、半端な家事を母に叱られてばかりいた。
04月、親友2人との連絡を再開した。性同一性障害と発達障害をカミングアウトし、受け入れられた。一緒にお喋りや外出、買い物をするといった交流を、少しづつ行うようになった。
プログラミングや大学の講義などのe-ラーニングを始めたが、調子が如実に反映され、次第に全くできなくなった。
07月、ネットでの調査・記事作成の在宅ワークを始めるも、時給100円ほどのペースでしか書けず、1ヶ月しか続かなかった。家庭教師の登録を行うも、自力で通える距離の紹介先は来なかった。
セクシャルマイノリティ向けの就活カンファに参加するも、既卒ですらない自分は一般的な就活の門戸を潜れないのだと改めて思い知るのみとなり、気分が酷く落ち込んだ。自分がこうして持ち合わせている障壁を乗り越え、就職活動に挑んでいけるとは、到底感じられなかった。
07月、減る貯金に焦り、辞めた月の給料と未払いの深夜手当を請求したくなって労基局へ行った。局越しに手続きを済ませたかったが叶わず、心身が回復した頃に連絡を取ることを職員さんに勧められた。しかし回復の兆しはなく、調子の僅かな波と請求可能な期日を照らし合わせてタイミングを計っていた。焦りと不安と、得る金銭以上のダメージを負う予想に、鬱屈していた。
07月、自宅のトイレで吐き気を催したまま動けなくなり、救急搬送されたが、異常は何も見つからなかった。
10月、期日ギリギリまで遅らせ、元職場へ連絡と請求を行った。連絡を取る具体的な計画を始めた時点で、希死念慮が増大していた。一人で店舗まで赴くのが恐かったため、友人に頼んで同伴してもらった。かつての上司に「使えないやつをずっと雇っててやっただけでも感謝してほしいくらいなのに、これ以上金を寄越せだと? 労基だか深夜手当だか知らんが、そんなことを言ってきたのは10年店やっててお前が初めてだよ」などと、遵法精神皆無の言葉を浴びせられた。これはもう労基に任せようと考えたが、その場から帰らせてもらえず、口論になった。
最終的にはどうにか全額の支払いを受けたが、酷く疲れ、 帰宅直後から自殺企図が立て続いた。以来、どうしたら確実に死ねるのかと考え続ける自分を抑え込み続けていた。時折抑え込みに失敗して、手首をカッターで切ったり自宅マンションの最上階廊下の外壁へ上ったりと、自殺未遂までいった。
11月、思考力や自制心が失われ、京都の博物館への遠征を突発的に計画、0泊3日の弾丸旅行を行い、伴って散財し、少ない貯金を更に減らした。
受診回数は月1回。

H30 / 2018.12.10 D病院(入院)

いつもの受診時、このまま処方された4週間分の薬を持ち帰ったらオーバードーズしてしまうと考え、抑鬱と自殺企図が酷いので入院したいと伝えた。そのまま入院し、抗鬱剤を処方され、ゆっくり休むよう言われた。規則正しく生活し、読書や折り紙、書き物をして過ごした。
空調の音をとてもうるさく感じ、耳栓が届くまでの間眠れぬ夜を送った。
トランスジェンダー受け入れ体制の整っていない病院だったが、いろいろ融通してもらい、医療スタッフ以外には性別と女性名である名前を隠して入院生活を行っていた。トイレは男女共用のため困らなかった。入浴は男女別の大部屋ではなく個室のシャワールームを使わせてもらった。しかし、他の入院患者たちと矛盾のない交流を続けるのはとても難しく、とても親しくなった人達にのみカミングアウトをした。
手違いから人前でフルネームを呼ばれ、女性名をアウティングされた恐怖とストレスで自殺未遂を1回行った。倒立させたベッドの柵とジャージの上着で首を吊ったが、すぐ落ちた上に発見が早く、大事には至らなかった。
入院期間は3ヶ月。

H31 / 2019.03.09 D病院

現在は元の実家暮らしをしている。男性名への改名を済ませた(03.25)。通院と就労移行の便を考え、D病院近辺での一人暮らしを準備中。不調は病識と頓服で対応している。入院中にできた交際相手の存在が大きな心の支えになっている。しかし、腸炎になるほどの過食や、突発的な散財などを行ってしまう。たびたび意欲や集中力が低下し、読書や勉強などができない。払えなかった入院費を親族に出してもらった負い目と、収入がなく貯金が減る一方であり引越費用すら心許ない不安、未だ何の公的な経済支援を受けられていない焦りが大きい。再び心身を壊したら医療費が嵩んで収支が狂うと考えると、就労がとても怖い。通院費を浮かすために伯母宅へ無償で宿泊させてもらったが、こんな甘えが自分に許されると思えず、辛い。
生活全般において、億劫からの先送りが目立つ。義務感で動くことで営めてはいる。日用品の買い物や駅までの送迎などは未だに母の運転に頼っている。
自転車へは乗れるようになったが、事故を起こした際には服用中の薬の添付文書に「車などの運転をしないよう」と書かれているこちらが不利になると考えると運転が怖い。
受診回数は月1 ~ 2回。


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