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中小ITショチョーの秘密⑥/途切れた引継ぎ

2023.07.11(火)ここ数日、文章量の多いnoteが増えているので、明日は1日お休みします。

あとこの話を含め2話。一気に秘密への核心へ。



あらすじ

中小IT企業に勤務する私(40代後半)は、東京事業所の所長である。
5年前に前任の所長と突然の交代。
システムエンジニアから経営層に東京事業所を任されることになる。

私の呼称は「ショチョー」

どこかのフィリピンパブで呼ばれているみたいだ。

大阪の恩師(I部長)がI所長へ
I所長の就任から5年後、体調不良から病院であることを告げられる。

半分以上実話で真実未満(全7話)

6.途切れた引継ぎ

それから数年は、大阪で新人時代にお世話になったI部長改め「I所長」となり、管理職(I所長)と社員(私)という関係で、東京事業所が続いていくことになる。

技術者としてのモチベーションの低下

私が技術者としてのいままでの仕事がハードだっただけに、30代後半からは、あまり技術者としてのモチベーションが高くなかった。

年齢的にも求められるスキルは高いのだが、開発現場でのやりにくさが目立った。

35歳越えたら、技術者は後輩を育て始めないといけない。

その時の自論

今もあまり間違った考えではないと思っている。

過去に「35歳プログラマー限界説」ということもよく言われたが、システム開発も見た目は違ってもやっていることは同じ。同じことを10年以上やれば飽きるし、やっていてはいけないのだとも思っている。

そして「いつまでも頼れる先輩」は、いつまでも頼ってはいけない。


ただモチベーションが下がった技術者にいい顔をしない人もいる。

システム開発現場の上司になる取引先の頂点に立っているI所長と過去に仕事をしたことのある「N部長」

私がシステム開発の現場でリーダーシップを発揮しないことや自分が前に出ない(若い人間にチャンスを譲るような態度)が気に入らないそうで・・・

ある日、I所長と私に話があると呼び出され応接室へ。

なんで先頭に立って仕事してくれないんですかね?

N部長から

当然、理由があった。
N部長の会社へは派遣契約で働かせてもらっていた。

他社に比べて私一人当たりの単価(=弊社に1カ月に支払われる金額)が他社よりも圧倒的に抑えらえた金額で、こちら側(弊社)の賃金アップの要求ものんでもらえていなかった。

I所長は、私が口頭で反論するというのもわかっていたが、いろいろとこちらの都合も小言で言いながらも頭を下げとおした。それは、やはり会社の大きさや仕事をもらっているという金銭的な上下関係がある。N部長はI所長から過去は教えてもらった人間でも企業の大きさでパワーバランスも変わる

仕事をもらい受ける中小IT企業の悔しくつらい瞬間でもある。
(下請けという構造は、製造業に限った話ではない。)

N部長は、同じ会社の社員にもパワハラまがい(強めの要求)の発言が多く、あまり好きな人はいないが部下が必要とあれば、中小IT企業に圧力をかける材料としてこのN部長を使うこともある。

私の中の辛い出来事ではあるが、モチベーションが上がらない職場で何を言われようが、期待にこたえられないのであれば、もはや頭を下げるしかない。

I所長は、それがわかっていて頭を下げ続け、N部長の会社を出た後に

弱い者いじめってやつは「言わせとけばいい」

I所長の一言

この時ばかりは、I所長に悪いことをしたと感じた。


そんな中、ある出来事が事務所でイベント的に行われた。

I所長の還暦祝い

I所長は、東京事業所で「還暦60歳」を迎える。

肉が好きなI所長の還暦祝い飲み会会場は東京事業所近くの「焼肉屋」。

還暦祝いの赤い「60歳」がプリントされたTシャツを作り、大はしゃぎのI所長。

それは大きく盛り上がった。

そして、ここでI所長は、後々は私に「所長(=事業部長)を譲りたい」と言う。

東京事業所の所属メンバーは、この飲み会で私がいつか東京事業所の「先頭に立つ人」というのを自然と認識した瞬間かもしれない。

私もシステム開発という技術の仕事に疲れて、モチベーションも下がっていたころだったので「社内転職」ぐらいの気持ちで、開発の仕事をしながら、I所長の仕事を少しずつ巻き取るようにしていた。

システム開発の仕事から「I部長と仕事の時間」が少しだが、増えていた。

所長は、3週間不在でも仕事は回る

私が、大型連休で妻の実家で寝ているときに1本のLINEが来たことがある。

腸閉塞で入院することになりました。

I所長からのLINE

これだけみると何が起こったのかわからず、急遽折り返し連絡を取った。

I所長は大阪に帰阪した際、胃腸の調子が悪く、脂汗が止まらず倒れて救急車で運ばれた。大型連休のため誰に連絡が取れるわけでもなかったので私のところに連絡があった。

こういうことは今までもなかったわけではなかったが、大体の所長の業務は月末月初にハンコを押す業務が大半。1か月以内なら私が肩代わりして不在でもなんとかなると踏んでいた。

東京事業所のメンバーもI所長の入院で団結してくれて、復帰するまでの3週間不在でもなんとかなった。

そして「所長は、3週間不在でも仕事は回る」は、東京事業所のメンバーの共通認識となった。

が、

実際には腸閉塞もどうやら大阪から出てきて週末には大阪に帰る無理な一人暮らしなどから来たもので「寂しさで遊びまわっていたI所長」について

「所長ってどんな仕事してるのか?→ちゃんと働いているのか?」

という触れてはいけない課題は、みんな口にすることはなかった。

「オリンピックまでは・・・」

この言葉は、いろんな取引先にI部長と営業訪問することがあった時に、I所長が必ず言う言葉である。

I部長さんも彼にいつかはバトンタッチですね!
若い人がいてうらやましい。

(I所長)
「いやいや、東京オリンピックが終わるまでは自分が所長やります。」

営業訪問時のやり取り

先に結論から言うと、これは実現しなかった。

3週間の入院は、
今考えるとこれから起こることの前触れだったかもしれない。

伊東温泉旅行とI所長の体調不調

6年前に、女性社員がいないと嘆いた伊東温泉旅行は「もう一度やりたい」という声がI所長からあり、女性社員が2名参加して10名程度の旅行を敢行した。

各自システム開発の仕事を金曜午後休にして、8月の終わりに温泉地「伊東」に向かう。

6年ぶりに行われた1泊2日の温泉旅行は、I所長大いに盛り上がった。

温泉地によくある卓球台で、60歳を越えるI所長も浴衣を着てハッスル。

夜には一つの部屋に集まり、I所長も大好きな「漢字クイズ」をみんなでやったりして深夜1時過ぎまで大騒ぎ。東京事業所のメンバーの普段見れない一面で「こんなことがあるのか」と思う1日目だった。

ただこの時、I所長は様子がおかしかった。温泉の大浴場で屋外の露天風呂に移動した際に石に足を滑らせて大きく転倒。

ケガこそなかったが、あまり顔色がよくない。

深夜1時過ぎまで続いた漢字クイズも終盤はI部長はタバコを吸って休憩していた。

明日、朝一の新幹線で大阪に帰るわ

I所長が私に伝言

伊東なので、熱海から新幹線祈り、I所長は大阪に帰って行った。

2日目は残ったメンバーで熱海観光。

残ったメンバーで熱海城へ行ったり、おいしいものを食べたり。

当時の様子をSNSを見ると投稿されているが、I所長に異変が起こっていたのは誰も知らなかった。

病魔はそこまで

9月頭に、東京事業所に行くと事態は一変する。

I所長が「背中が痛い」と言っている。

「病院で見てもらった方がいい」と言ってもかたくなに病院に行こうとしない。
健康診断も何かが見つかるからいやだとかいったり、胃カメラも絶対嫌だというI所長。病院に行かないのは、もうすでに自分の体がおかしいことに気付き始めていたからかもしれない。

数日後、東京事業所であることを聞かされる。

東京事業所でI所長と私しかいないので、会議室に行く必要もない。

ガンだったんだわ。

I所長からの言葉

よく話を聞くと「胃ガン」と「大動脈瘤乖離だいどうみゃくりゅうかいり」だそう。胃がんは私の母も罹っていたので、びっくりはしなかったが、もう一つのほう。インターネットで検索すると「背中が痛い」というのは、これ大動脈瘤乖離が原因のようだ。

ただ、私もがんになった人をどうしてやることもできない。

やれることと言ったら、背中にホッカイロを張る行為。背中の血流がよくなると「背中の痛みがおさまる」という不思議な状況や光景を目の当たりにしていた。

「この辺ですか?」(背中にホッカイロをはる行為)

と背中にホッカイロをはる行為は病気をしている人にできる唯一の行為だった。

いままで時間をかけて引継ぎしたものは、大したことのない作業だったが、I所長が急にいなくなると状況は変わる。

I所長は病気に具合次第で調子のいいときだけ出勤に。3週間不在でも所長の仕事は回ることを知っている東京所属の社員たちは、I所長の体調を気遣うぐらいしかできなかった。

主要な仕事の引継ぎがないまま、I所長は、仕事を続け病気と闘うことになる。

季節は冬になり…

I所長は、がん手術のため、全国いろんな病院を探し回ったようだった。

I所長の親族がいる「名古屋」、I所長の家のある「大阪」

言い方はよくないが、自分の最後のよりどころを探すかのように。

同時に抗がん剤治療も始まっていたが、仕事を辞めることはなく東京事業所には出勤してきていた。

会うごとに様子が変わっていき、痩せていっていた。

小太りで肉ばかり食べていたI所長はそこにはいない。ガバガバになったスーツを自慢はしてくれるが、悲しい自慢である。そして背中には、血流がよくなると痛みが和らぐということでホッカイロを張っていた。

そんな中、引継ぎのために一日東京事業所でI部長から引き継ぎを受ける中、ファミレスに行った。そこで頼んだのがハンバーグランチだった。

あんなに好きだった肉も、もう味がしないんだわ

I所長の一言

抗がん剤の影響で、砂をかんでいるようとはよく聞く。

がんと闘病している人はもちろんつらい。でも、聞いているのほうは、何も言い返せない。

ただ、話を聞くことはできた。午後には、取引先の営業担当の人の性格など会話をして引継ぎを行った。もう電子ファイルなどに残してほしいなどと引継ぎでわがままを言うことはなく、引き継がなくても自分が何とかして行かなければならないという覚悟だけはできた。

「年末年始のあいさつ周り」という会社の卓上カレンダーを渡して回り、「来年もよろしくお願いします」という営業の顔見世行事がある。

大阪本社から来た営業部長と一緒に東京の取引先を回った。

実は、M営業部長は、私より年上の「I所長の最初の教え子」である。

さらに言うならI部長にとって最後の教え子は「私」だったのかもしれない。

年が明けると状況はさらに悪化する

まだ入院せず、みるみる痩せるのに大阪から東京への移動を繰り返すI所長。

私もシステム開発の仕事を続けていたが、大阪本社からI所長と連絡が取れないと連絡があり、東京事業所へ赴く。

そこで見た風景が、
ほぼ事件の現場のようなの風景。

事業所の扉を開けると普段はセキュリティー上、部屋の様子が見えないようにパーティションになっているが、うめき声か聞こえる。

パーティションを横によけ部屋に入ると、長方形型ソファーの上にうつ伏せになり、お湯を沸かすポットが地面に置いて、横になったままコーヒーを入れようとしたが、背中にホッカイロを張ったI所長倒れた状況。

フロアーカーペットがコーヒーで汚れていた。

これは仕事できる状態ではない。

救急車を呼ぼうとしたが止められ、会社経由で親族に連絡を取ってもらって帰ってもらった。

それから何があったのかはわからないが、薬を変えたりすることで何とか動けるようになった。

娘の結婚式

I所長は、結婚式になると昔から「1年前に言ってくれ。ご祝儀積み立てるから」というのが口癖である。

私の時は、積み立てらえなかったが・・・

ただそんなI所長にも、娘さんがいて結婚式が2月。

I所長は何度も娘の結婚式ではピアノでカノンを弾くこのCMのようなことがしたいと私に伝えていました。

今の体で行けるのか?そんな心配をしていた。

これが最後の会話

I所長は、4月から大阪本社で専務というイスを用意してもらい、3月最終勤務日までに取引先を1つ訪問と来社対応だけ一緒に同席してもらった。

取引先訪問は、東京事業所から1駅しかない会社。元気な時は私よりもはやい速度で歩き「一駅なら歩いて帰るか」というような人だった。

この時は、打ち合わせが終わるとコンビニのフードコートで休んでもらっている間にタクシーを呼び自宅まで送った。こんなに体調の悪い状況でも顔を見たいと東京事業所まできて営業する人もいた。

そんな仕事の合間に2月の娘さんの結婚式の話を聞かせてくれてスマートフォンを見せてくれたが、I所長は点滴と車いすで出席。親族に医者がいたそうで対応できたとのこと。

見ていて心が締め付けらえる写真だった。

事務所を去る日

最後の来客対応をした後、新幹線に乗る前に東京事務所の下まで見送りに降り、ヘビースモーカーのI所長はタバコに火をつけた。

この人I所長は、ガンでも最後までタバコをやめなかった。

事務所たのんだわ

I所長の一言

ここまで来たらいろいろ言うことはなかった。

「わかりました」とだけ言って、
やせ細った足でもしっかりと歩いていく姿を見送った。

この後、4月に数日大阪本社に出勤したとは聞いたが、体調が悪くなりそのまま入院。

ゴールデンウィークが明けたころ、I所長は亡くなる。

事業所で一人、泣いた。

その時思い出すのは、2回行った伊東の港から見える海を思い出す。

ーーー第六話はここまで。

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