【心の声】→【自分の意思・価値観】
前回の投稿では、私が悩む理由について、結論【自分自身が悩みを作り出している】って話を発信した。そして今回は、そんな【自分自身が作り出す悩みの根本】とも言える【心の声】について発信したいと思った。具体的には、まず『知る』こと。次に『本気で向き合う』こと。その後【自分の意思】として『納得する』ことについて。私の実際のエピソードを交えながら、自分の過去を振り返ってみたい。そして、読者の皆様にも、『ほんの少しでも何か伝わるものがあれば嬉しいな』と思う気持ちがある。
【心の声】について、私が自分で意識するようになったのは、つい数年前のこと。それまでの私は、前回の投稿の通り【自分の意思は二の次】で、【とりあえず反応すること】の方が、先行していた。故に【訳も分からずに返事する】とか【相手に言われたことに応えようと必死になる】とかが、割と無意識に出来たって話。『何故、そんな行動が出来たのか?』と言う疑問が、今になって浮かんでくる。しかし、当時の私は【無意識】な状態だった。【心の声】なんてものを、本気で知らずに生きていた。だから、そんな疑問に対する【自分の明確な答え】=【自分の意思】なんてものは、1ミリも考えた事もなかったって話。
敢えて代弁して答えるならば、『相手が喜ぶと思うから』とか『相手に怒られなくて済むと思うから』とか。更には、『相手に言われた事をするのが正しいと思っているから』『とにかく相手の都合がいいように自分が頑張らなきゃいけないって思うから』等々。どの答えを見ても、『結論、なんとも【不明確な答え】なんだろうか』って話。今の私なら『確実に疑問に思ってしまう』ようなことばかり。
実際に振り返ってみると、要は、【相手主体な生き方】に【無意識に甘えていたのは自分】なんだよってことが、私は言いたい。【自分の心の声】とか【自分自身の明確な意思】みたいなものに、まるで向き合おうとしなかったのは、【自分】なんだから。そもそもの話、そんなものを『無意識に簡単に捨てて生きていた』んだよって話。本来ならば、それらの『延長線上にあるもの』が【確固たる自分】みたいなイメージだと、今の私は考える。正に、それらを『自分で作って生きてこそ、【自分の人生】なんだ!』みたいなことを、私は、20数年の人生を経て初めて知った訳だ。その瞬間がきっかけとなり、以降の私は、度々【自分に言い聞かせる努力】を重ねた。その結果【私自身の心の声】に対して、まずは『知る』ことが出来たって話。
それまでの私は、【私自身の心の声】って存在を、本当に知らずに生きていた。周りの大人が言う事、やること、教えることに対して、『全て、やらなきゃいけない!』とか『そうでなきゃ、私は幸せに生きられない!』なんていう思考回路だった。【私自身の心の声】を『問われる事』も無ければ、『自分で探すように促されること』も無かった。【私自身の心の声】に対しては、恐ろしい程に全く興味がなく、【固定概念】と【その周りの人間】があれば【私は幸せ】の方程式が成り立っていた。【私の幸せ】に対して『本気で向き合う』ことも無く、『この環境の中で生きること』や『そんな周りの人間に認められて生きること』が、【私の幸せ】だと本気で信じていたって話。
だけど、そんな風に生き続けた所で【上手くいかないこと】なんてものは、ほとんど毎日遭遇した。その度に【固定概念】と【その周りの人間】を頼っては、一旦その場を納める。その数日後に再び同じことが起きては、【固定概念】と【その周りの人間】を頼る。それの延々と繰り返し。そんなことばかりで生きていては、『そりゃ【自分の心の声】なんてものが芽生える訳もないじゃない?』って今の私は振り返る。そもそもが、『本気で自分を大事にしよう』って気持ちが全く見えなかったんだよね。【私自身の心の声】に対して全く興味が無く、むしろ、【固定概念】と【その周りの人間】や、その他【自分以外の何か】を対象にしてばかり。
要は、『第三者を常に引き出しにする』って言う、当時の私の癖みたいなもの。『なんの根拠も無い持論』だけど、そうすることで【私自身の心の声】から『常に自ら遠避けていた』って訳だ。【私自身の心の声】を私自身が『そもそも大事にしていない』し、自信なんてまるで無いのだから、【向き合う努力】もしなかった。もっと言うならば、【私自身の心の声】に対して、『本気で気づいていない』とか、ぼんやりと気づいても、『自信が無いから見て見ぬふり』なんて事を平気で繰り返してきたっていう話。『超超最低』な私の過去。それが、【私自身の心の声】を本当に『知る』ことなく生きてきた証だよって話。
そんな過去から思うことは、そんな感覚で20数年も生きていれば、『そりゃ感覚も麻痺するだろう』ってこと。何が【麻痺】かって言うと、『自分の人生』『自分の心の声』『自分の意思』『自分の価値観』などについて。【1人の人間】として生きる上で、めちゃくちゃ大切な【自分の確立】に必要な要素が【ほとんど持ち合わせていない人間】だったってこと。しかも、『そんな自分に何の疑問もなく生きていていた』ってこと。どんな時でも【相手主体】=【自分の答え】な当時の私。【自分の心の声】なんて、あって無いようなものだったんだよね😂
だからこそ、【自分の心の声】に『本気で向き合う』努力しないと、いとも簡単に見失ってしまうことの連続だったって訳なんだよね。
【心の声】を『知る』ことができた後、今度は『本気で向き合う』ことが、大変だった。基本的に常に【相手主体の思考回路】が『染み付いている私』だからこそ、心が折れそうになる時程【相手主体の思考回路】に流されそうになった。『そうやって流された方が、『【自分の責任】から逃れられる』と、簡単に思ってしまうからだ。しかし、そうやってこれまで20数年間、『他人任せに生きてきた』から、今まさに【自分の心の声】と『本気で向き合う努力を重ねてるんだ』ってこと。当時の私は、何度も同じことを考えては【思考回路の方向転換】をしてたなって感じ。
どんな小さなことでも常に【自分の心の声】に対して『本気で向き合う』努力。そして、自問自答を心がけ、その都度【自分が主語になる答え】を導き出す。【自分以外の何か】が浮かんだ時は、意識的に【自分が主語になる答え】の方へ『強引に方向転換』する。そうでもしない限り、『私は一生、自分の人生を生きられない』気がしていた。だから、『自分の人生を生きるため』『自分の意思を育てる為』に【自分の心の声】に対して一生懸命本気で向き合ったつもりだ。
【自分の心の声】に対して、『自分自身が1番本気で向き合う』こと。それを『しない・出来ない』って【否定する・諦める】ということは、私は『本来の自分を一生気づかないで生きることになる』と思うようになった。つまりは、『【自分以外の誰か】を常に意識して、【自分の明確な意思の無い人生】を生きること』と同じ気がしているってこと。私は【自分の心の声】に『本気で向き合う』努力を重ねた結果、人生で初めて『自分の意思』『自分の価値観』を自覚した。【私は私】の価値観を生きる為には、【私自身心の声】と『本気で向き合う』こと。『これはきっと【必要不可欠】なんだ!』ってことが、自身の経験から学んだ大切な財産だと思っている。
そして最後に、【自身の心の声】に『納得する』ことについて。正直なところ、いくら【心の声】を『知る』『本気で向き合う』ことが出来たとしても、【その通りに生きられる保証がない現実】は、沢山あるよねってこと。だけど、そんな『思い通りじゃない現実』でも、それを『乗り越えて生きていく必要がある』って話。そうでなければ、【自分の心の声】に『納得する』なんて生き方は『更に難しくなるんじゃないかな』って私は思う。そして、そんな時こそ【自分の心の声】に対して、自分が『納得する』ためには『どんな思考変換をして自分自身を導くのか』って話だと私は思う。
私は、基本的な【自分主体の思考】では解決が困難だからこそ、あえて逆の発想で【自分以外の何か】を主体にして考えてみる様になった。何故なら、きっとその『現実を変えることの方が難しい』と思うから。『無理に変えようと抵抗しない』でも、【自分の答え】として『納得する』為に【考える】だけの話。それを【悩み】としてネガティブに解釈するのか、【自分の心の声】に対して『自分が納得する』為に『思考転換するだけ』だと考えるのか。
きっと私は、ある意味、私の過去があるからこそ【自分以外の何か】が主体であっても、それを【受け入れる為の思考回路】を『意識的に持ち合わせている』と自負しているって話。更に現在の私は【自分の心の声】に対する【自分の意思・.価値観】も『意識して生きる』ようになった。対比するどちらの思考に対しても、我ながら、『意識的に考えることが得意になった』気がしている。
どんな時でも、【自分の心の声】を、まず『知る』こと。そして『本気で向き合う』こと。また、思い通りでない時でも、自分が『納得する』為の『思考転換する努力』を大事にしたいと、私は思う。それが、【悩み】という『ネガティブな言葉から脱出するための近道になればいいな』という願いを込めて、私の実体験をブログに残した。
というわけで、上記の長文にお付き合い頂き、ありがとうございました!!
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