苦は幸福に必要、という考え

病むとか、癒えるとか、救われるとか、愛とか、幸福とか色々ありますよね。

真髄をついている書からの抜粋↓↓です。(英訳は文末に)

現在の世の中でも、キリスト教を信じることによって病気がなおされると考える人が少なくない。しかし正しい宗教的なものの見方からすると、病気を治してもらうためにキリストの道にはいり神を信ずるというのは、キリスト教をまたは神を自分の幸福や楽のために利用することである。キリスト教はこのような立場をゆるさない。礼拝に出て神に祈るから自分に幸福を与えて下さいという態度は、真の神礼拝ではなくて、取り引きにすぎない。宗教の名においてこのような取り引きがなされるのが、すなわち多くの新興宗教である。
与えられてもうばわれても、強められても弱められても、常に神の愛を賛美し、心の平安を保つのが真のキリスト者の姿といえよう。

「病める心とからだ」日野原重明著

たしかに、奇跡も起きると私は信じていますよ。

それには、「今朝目が覚めていつもと同じ日常が送れる」というのも含まれていると思います。

奇跡の快復もあるのでしょう。

当然、医学的(科学的)治療によって病気平癒というのも、延命も、症状緩和も全て奇跡でもあり、神の創造した世界の恩恵だとも思っています。

同時に、自販機のように、祈ればなんでも好きなことが叶うというのは勘違いだとも思っています。

死なない人間はいません。というか、不老不死の生物は地球にないかと思います。(全てを知っているわけではありませんが……)

でも、喜怒哀楽のある、苦もあり楽もある登山や四季のような人生という道のりというのは、全てをひっくるめて美しいものだと思います。

何度も呼吸不全で人工呼吸器やICUでの手厚い医療、様々な場面でおそらくは多くの人の想像を絶する「苦」を味わっても、それは同時にこの世で最も美しくて尊い「愛」や「優」に満ちたものでもあると確信しています。

「苦」が悍ましい(おぞましい)ほどに苦しく険しいものであるほどに、そこで助けてくれる人々や神様の「恩恵」が尊く感じ、それへの感謝が深まるのではないでしょうか?

「苦」と「幸福」は表裏一体であり、二つで一つなんじゃないかなぁ、と思います。

今を大切に生きよう!

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抜粋文の英語訳:DeepL翻訳↓↓

Even in today's world, many people believe that belief in Christianity can cure illness. However, from the correct religious viewpoint, to believe in God and to enter the path of Christ in order to be cured of one's illness is to use Christianity or God for one's own happiness and comfort. Christianity does not tolerate such a position. The attitude of "I go to worship services and pray to God to give me happiness" is not true worship of God, but is merely a trade-off. Such a deal is made in the name of religion, i.e., many new religions.

「病む心とからだ」p29-30のDeepL翻訳

今を大切に生きよう!

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