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コロナと、私と、非常識


今回は、私の人生や考え方が大きく変わった、コロナ禍について書いてみようと思う。


我々の生活がコロナによって大きく変えられたのは、2020年が始まって少し経ってからのことだった。

2月末には全国の小中学校、高校に休校要請が出され、私の通っていた高校も休校となった。

当時、私は高校2年生で、もうすぐ進級という時期。それなりにお勉強に力を入れていた母校では、「高校3年生のゼロ学期」とも呼ばれていた。

3月頭から5月末までの丸3ヶ月間、授業も部活もない日々を過ごした。6月から授業は再開されたものの、様々な制限はつきまとい、最後の最後まで「普通の高校生活」は送れなかった。

テレビでは、「コロナに青春を奪われた高校生」というようなキャッチフレーズでの特集が、頻繁に組まれていた。

私は、まさに、その世代。

友達には会えない。
部活も出来ない。
最後の文化祭もなくなった。

周りの友達は誰もが、「普通の高校生活」に戻ることを待ち望んでいた。

でも、私はその非常な生活が続くことを望んだ。

安倍総理が一斉休校を発表したとき、私は塾の自習室にいた。それまで静寂に包まれていた自習室は、その一報によって徐々に騒がしくなっていった。

このニュースを知った瞬間、私は心の中で大きなガッツポーズをした。

「この気持ちを早く誰かと共有したい」と思い、近くにいた友達の元へ駆け寄った。

「おい、ニュース見た?こんなことしたら、学生からの安倍総理への好感度爆上がりだろ」
と冗談交じりに伝えた。

すると彼は、
「いや、何言ってんの?高2の最後の1ヶ月、学校行けないんだぞ?高3だって、学校なくなるかもしれないんだぞ、、、」
と不安げな表情で私に訴えた。

てっきり一緒に喜んでくれると思っていたので、想定外の回答に困惑した。

そして、よくよく周りの学生たちの会話を聞いてみると、みんな口を揃えて、
「え、これ部活どうなるの?」
「合唱祭は?」
「3年の文化祭は?さすがになくならないよね?」
と私の持つ感情とは別の感情を共有していた。

それに対して、私は、
「部活?こんなラッキーな引退の仕方ないよね?」
「合唱祭?なんでやりたいの?」
「文化祭?ないに越したことないじゃん」
「学校?へぇ、みんな意外と好きなんだ、、、」
と思った。

学校には行かなきゃいけないから行く。
部活はやらなきゃいけないからやる。
人とは関わらなきゃいけないから関わる。

私にとって、これらのすべてのことが「ないに越したことはない」ことだった。
そして、みんな同じ認識だと思っていた。

しかし、コロナ禍での学生生活を悲観的に報道するテレビ番組を見て、
「あれ?もしかして、全国的に俺の感覚と違う感じ?」
と徐々に自分がズレていることを認識させられた。

不謹慎極まりないことは自覚しつつ、毎日の新規感染者数の発表を見ては一喜一憂していた。感染者数が増加していれば「よしよし、その調子」と安堵し、減少していたら「学校再開しちゃうじゃん」と焦燥感に駆られた。

私はコロナ禍によって、幼少期から持ち続けていた、生きづらさの正体に気づいた。

私は多くの人が求める「日常」に共感できないのだ。

私は、ずっと
「みんなのマネをして、みんなと同じように生きてるはずなのに、なんで俺だけ上手に生きられないんだろう」
と感じていた。

考えてみれば、みんなのマネをしたって、みんなのように上手に生きられるはずがない。

みんなが根本に持つ常識を持っていないのだから。非常を望んでいる非常識な人間なのだから。

この気づきは、私を劣等感から解放し、私の中に新たに孤独感を生んだ。

このことをきっかけに私の人生や考え方はガラッと変わり、終いには芸人を目指している始末である。

この気づきと、それがその後の人生に与えた影響が良かったのか、悪かったのかはよく分からない。

でも、あれから、自分自身と対話するのが楽しくなり、自分のことが少しだけ好きになった。



それでは、今日はこの辺で。

ありがとうございました。

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