『Tom Traubert's Blues』 vol.2 【小説】
夫の上司、小野を訪ねた日のことを思い出す。
結婚届の署名を、お願いしていた。
夫は新婚早々、長期出張中で、小野の家には、環奈ひとりで、挨拶にあがった。まだ小さい子どもがいて、三輪車やバギーが、玄関に所狭しと、置いてある。
帰りぎわ、小野が、背後から近づき、
「あいつは、出張や、単身赴任も多いだろうか
ら。ね、分かるだろう?
いつでも、連絡してよ、オクサン」
湿った笑いが、環奈の首筋に、吹きかかり、通りかかった公園の水道で、それを狂ったように洗い流した。
クソみたいな奴は、どこにでもいる。
それが、会社では、部下の尊敬を集める上司で、家庭では良い父親でも、だ。
はあ? ざけんなっ、エロおやじ!
由美だったら、間違いなく、その場で一喝しただろう。相手が、だれだろうと。
環奈には、できなかった。
社会的ステイタス? 屈辱感? それが何なのか分からぬまま、わたしは、息をひそめてしまう。
無かったことにしてしまおう、いや、そんなこと無かったんだ、あるわけがない。
帰国した夫にも、伝えなかった。
由美の会社でも、最近は、世界情勢が不安なせいもあるが、親の介護や、子どもの受験があったりで、家族を日本に置いて、単身赴任を選ぶ同僚が、多いらしい。
たいていは、男性社員だが。
それなりに仕事をしているカップルにとって、どちらか一方が、海外勤務となれば、単身赴任は、現実的な選択肢の一つだろう。
「銃後の昔から、おんな子ども、って言葉が、
あるじゃない?
それが、今も生きてんのよ、ウチの会社は」
じゅうご、とか笑える、もぉ~いつの時代のハナシだよってのぉ〜
お互い働き始めのころ、由美が、飲んで酔いつぶれると、いつも言っていた。
環奈にも言わないストレスを、なに食わぬ顔で抱えながら、男社会の職場で働き、子どもを産み、ここまで来たのだろう。
由美は、いつだって強くて、優しい。
その親友に、恥じない生き方をしたいと、思いながら、環奈も、今日まで、やって来たのかもしれない。
子どもはいないが、ずっと、子どもに囲まれた環境だった。
大学時代の、学童保育アルバイト。都心の二十四時間の、無認可託児所。郊外の百人規模の、公立保育園・・・
今は、0歳から二歳児まで、十九人以下の認証保育所に、勤めて六年になる。
家庭的な環境は、自分の保育にも理想的で、なにより、子どもとの距離が近かった。
首も座らない赤ん坊の頃から、ともすれば、親より多くの時間を共に過ごし、保育園という社会で育む。どの子も、卒園する頃には、小さな勇者みたいに、さらに大きな世界へと、駆けていく。
それでも環奈は、仕事に対する自分の卑屈さを、どうしても、捨てられずにいた。
人の命を預かりながら、給料は雀の涙。誰も気づかなかった、子どものかすり傷ひとつに、心ない保護者から、責任を問われる。安全という名のもと、求められれば、職場に監視カメラの導入も辞さない、経営サイド…
子どもとは日々、全身全霊で向き合いながら、先輩や同僚たちのように、理想と現実を、割り切れない自分がいた。
世の中、自分の替えなんて、きっと、いくらでもいるのだろう。
職場も、ひょっとして家庭も?
あぁ~やば、わたし、病んでる?
こんなふうに考えたことなど、一度もなかった。
いや、気づかぬふりをしていただけか・・・
「あたしも、ワンオペ育児、もうヤダーってな
ったら、ぜーんぶ放り出して、環奈に会いに
行くから」
ほんとだよ、格安チケット調べてんだからと、由美が、映画のチケット取ったよ、みたいな、いつもの笑顔で言う。
赤ん坊が、満足そうに、くすぐったいような笑い声で、環奈に微笑みかけた。
(続)
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