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『Tom Traubert's Blues』 vol.7【小説】

赴任からもうじき一年、現地の生活にも慣れ、落ち着いてきたころ、環奈の身体に異変が起きた。

不正出血が続く。だるくて、ベッドから出られない。

ケニアか、カタールに飛んで、検査することも考えたが、それなら、日本に帰国して、馴染みの女医に、診てもらいたかった。

夫は、すぐに、航空チケットを手配してくれた。
ひとりで帰れるから大丈夫、という環奈に、自分じゃないから逆に落ち着かないんだと、休暇を取って、付き添ってくれることになった。


ティンク、どうしよう?

一緒に連れて行けないこともない。だが、複雑な手続きに、かける時間も、なにより気力もないほど、身体は参っていた。
ペットホテルなど、あるわけもない。真っ先に浮かんだのが、名波の顔だった。

名波とは、あれから、持っているトムウェイツのCDを、車内ですべて聞いてしまうくらいに、昼食を共にした。いつもティンクが一緒で、行ける店は、限られたが。

電話をかけ、しばらく、ティンクを預かってくれないかと、名波に打診した。
自分の体調のことも、包み隠さず話すと、快く受け入れてくれた。

「出血は・・・、身体のことは、軽視しない方
 がいい。しっかり検査して、じっくり、治し
 てきてください」

名波は、深刻な声で、返事をしたか思うと、

「最後の昼餐、しませんか?」

と、あっけらかんと言う。

やだ、縁起でもない、と言われた環奈が、笑ってしまった。
この男の、単刀直入で、カラッとしたところに、自分は魅かれているのだろう。


比較的、体調の良い日を選んで、いつもの、気の遠くなるほど遅い店に、ティンクを連れて向かった。
大きな骨付き肉がもらえるかと、常連になったティンクも、心なしかシッポをふりふり、嬉しそうだ。

名波のランクルで、店に着くと、初日のテラス席に通された。

お目当ての、大きな骨をもらったティンクは、これこれ~っ♡と小躍りしそうな勢いだ。

「写真を、送りますよ。あと、太らせないよう
 に、気をつけます。
 てか、僕のランニングに付き合ってもらうん
 で。
 覚悟しろよ、ティンク」

呼ばれたティンクは、ちらっと名波を見ると、ウルさそうに、骨に戻った。


「ソユンは、イギリスにいた頃、子宮を全摘し
 ました。
 初めは、疲れや貧血だと、思っていたそうで
 す。だけど・・・。身体のことは、くれぐれ
 も、過信しないでください」

名波の、真っすぐさと、現実を受け入れる潔さを、環奈は、改めて理解した。

「あの朝、仔犬を拾ってしまって、ケンさんに
 言われて、わたし、反省しました。最後ま 
 で、面倒見きれるのかって。 
 いっときの情けで、結局は捨てていくこと 
 に、なりはしないかと。

 もしかしたら、このまま、ケンさんたちに託
 すことに、なるかもしれない。
 やっぱり、身勝手でした、わたし」

「それは、僕も同罪ですよ」

大丈夫、ずっとそばにいますからと、名波が、静かに言った。

厨房から、従業員たちが交わす現地の言葉と、料理の良い匂いが漂ってくる。

「僕は、環奈さんに、何者でもないと言い切る
 あなたに、救われた。
 あなたの言うように、僕も、何者でもないな
 ら、こんなに嬉しいことはない。

 気づいていますか。あなたに、救われる人間
 が、いることを」

ふと、由美を思い出した。
名波は、なおも、

「どこであれ、だれかと生きていくのに、何者
 かである必要はない。
 理由なんかない。
 そばにいたい。ただ、それだけです。

 環奈さんと出会って、おかしな話ですが、僕
 は、自分がここにいる意味を、見つけた気が
 する」

ティンクが、テラスの床で、格闘の末に、バリボリと満足そうに、骨をかみ砕いた。


食後のコーヒーを飲みながら、名波は、思い出したように、上着のポケットに手を入れると、一枚のCDを取り出した。

ディスクに、Tomと大書きしてある。

「僕の選んだ、トムウェイツのベスト盤、っ
 て、土産にもならないけど。 
 あ、ボンボンも、良かったら」

舐めれば、口が真っ赤になるキャンディを、照れ隠しのように、CDの上に置く。

それから、少しだけ、熱を込めて言った。

「僕は、いつでも、ここにいます。
 どうしようもない奴らの、歌と一緒に。
 お互い、トムウェイツの歌に出てくるよう
 な、人間でいましょう。
 
 来世に期待、して」

何度も見つめてきた、痩せて無精髭の生えた横顔に、手を伸ばしたくなる衝動を、環奈は、なんとか押しとどめた。
代わりに、涙がポロポロと溢れ出る。

名波は、ボーイを呼んで勘定を済ませると、何も言わずに、席を立ち、環奈の手を取った。
車までの道のりが、永遠に思えるほど、初めて触れた温もりが、自分を満たすのを環奈は感じた。ティンクが、車の影に立つ二人の足元で、眠たそうに、大きなあくびをして丸まった。


https://youtu.be/hvFyt2kmrZk?si=Ebl0h-zsCWrWH0mN



翼の下で、千の丘が、どんどん小さくなっていく。

飛行機が、初めてこの国に着いた日には、なにも聞こえなかった。
それがいま、この耳に響いている、音・・・

あいまいな形で旅立つことに、ティンクも、名波も、わたしを責めなかった。

でも、この曲を聞くたび、わたしはきっと、泣いてしまうだろう。

身を隠す場所もない小国で、千の丘を流れる朝もやのように、だれをも真っ赤に染める夕日のように、この歌は、すべてを、包み込んでくれる。

離陸する飛行機の中で、あの曲が、名波と過ごした時間が、この胸に溢れ出す。

もらったボンボンを、口に含んだ。甘酸っぱい香りが、いっぱいに広がる。環奈は、その甘みを、舌の上で、いつまでも、転がした。


そう、来世に期待、して・・・




(了)

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