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『Tom Traubert's Blues』 vol.6 【小説】


「夫は、よく自分の仕事の話をします。

 戦争がひとつ終わると、なにが起こるか分か
 るかい?
 ドルが、天からの恵みのように、その国に降
 り注ぐ。それをかき集めようと、世界中か
 ら、大勢の人間が、集まってくる。
 僕らも、そのうちのひとりさ。
 
 ・・・わたし、戦争を、そんな風に考えたこ
 と無かった」

「ブルシットジョブ、だな」

名波が、吐き出すように言った。

あ、失礼。少なくとも、他人の仕事を、そん
な風に言うもんじゃないですね、と詫びてか
ら、

「僕は、ロンドンのシティで、働いてた。
 まさに、牛のクソ、みたいな仕事です。

 高給取りであるがゆえに、自分の仕事がクソ
 だと、死ぬまで気がつかない奴もいる。自慢
 じゃないですよ、どちらかというと、自
 虐です。

 あなたの言う、生産性がどうとかいう、国会
 議員も、似たようなもんでしょう」


メインロードへ車を出しながら、しばらく、二人とも黙った。

No one speaks English
Everything’s broken…

『Tom Traubert's Blues』 Tom Waits

あ、この曲のこの部分、好きなんですよ、と突然、名波が歌い出した。
美声が、台無しになりそうな、本気のしゃがれ声に、環奈も、思わず笑ってしまう。
少しだけ、ソユンの気持ちが、分かった。色々あっても、愛しくて仕方のない男の、声・・・他愛のない、やり取りの幸せ。

「この曲の解釈は、色々あって、でも、そんな
 のどうだって良いんだ。

 英語もなにも、分からない世界、言葉だけじ
 ゃない、みんなどこかイカレてて、どうしよ
 うもない奴らの、歌です。

 そんな世界に、僕も、ときどき身を置きたく
 なる。逃げたくなると言ってもいい」

間髪を入れず、環奈は問いかけた。

「ケンさん、その居心地の悪さが、何なのか、
 考えたこと、ありますか?

 教会で、人道支援をする奥さん、ソユンの
 ような正しい人が、この国にはたくさんい
 る。
 その正しい人が集う場所で、もしかした
 ら、あなたは、自分の無用さを、感じている
 のじゃ、ないですか」

思っていたことを、口から止められなくなった。

「ケンさん。みんな、何者かになろうとして
 います。わたしが日本で唯一、大好きなバン
 ドの、大好きな歌でも、歌ってる。

 いつか、何者かになれたなら・・・

 わたしは、ときどき分からなくなる。

 何者かでなくちゃ、だれかと生きていくこと
 は、出来ないんだろうかって。

 少なくとも、それを生産性、みたいな言葉と
 結び付けるなら、わたしは何者でもない。

 ・・・何者にも、なりたくない」

雨が、フロントガラスを打ち始めた。ラウンドアバウトに入る手前で、車を道端に停めると、名波が、少し顔をゆがめて、言った。

「僕は、神様と共にある彼女と、共にいる。
 それがシティを辞めた、今の僕の仕事です。

 それなのに、居心地の悪さ、たしかに、
 感じてるな…
 あなたも、なかなか、手厳しいですね」

「ここは、この国は、正しい場所ですか?

 過去には、極悪非道が尽くされ、そして今、
 正しい人間や、夫のような金集めの人間まで
 集まって、みんなで寄ってたかって、正しい
 国にしようとしている。

 わたしはわたしで、こんな国に来ても、ま 
 だ、居場所を探している」

わたし、甘ったれてるのかも、しれませんね・・・
環奈は、思いがけず、強くなった自分の口調に、ふっと笑いながら、言った。

Old shirt that is stained with blood and whiskey・・・
And goodnight to Mathilda, too

同上

トムウェイツが、最後の唸りを、優しい調べとともに、終えようとしている。

それを待っていたかのように、名波が、口を開いた。

「戦争ひとつで、大きなカネが動く。世界中
 に、そんな場所がある。

 終結すれば、人々は移動し、また、次の場所
 を探して、同じことをするのでしょう。
 世直しは、永遠に続く・・・

 僕は、今日、すこし、吹っ切れた気がする」


ありがとう、と名波は、横顔で笑うと、助手席の、環奈の足下で丸まっている、ティンクの頭を、くしゃくしゃと、撫でた。



(続)

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