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『Tom Traubert's Blues』 vol.5 【小説】

「僕たちの結婚を、彼女の両親は、許していま
 せん。
 昔、日本人に、自分たちの親族を殺されたこ
 とを、もちろん今も、忘れていない」

名波の行きつけのレストランで、見晴らしの良いテラス席に、ティンクを繋いで、料理が来るのを待っていた。

千の丘が、雨季の緑で、いっそう美しく広がっている。

日本では、環奈は、決して飲まなかったファンタも、すっかり食前の飲み物になった。

名波は、ペプシを立て続けに二本空けると、三本目をオーダーしてから、一気に話し出した。

「赤ちゃんボックスを、ご存知ですか。
 韓国では、出生届のない子どもの多さが、問
 題になっていて。
 僕らも、彼女の仕事が落ち着いたら、養子縁
 組をして育てるつもりです。
 
 僕の両親は、幸い、妻をとても可愛がってま
 す。韓国人は、目上の人を、とても敬います
 からね、
 初めて会わせたときから、クリスチャン同士
 でもあり、彼女の印象は、良かったようで
 す。

 でも、ソユン自身は・・・
 例えば、毎年八月十五日を迎える頃になる 
 と、彼女は、塞ぎ込んでしまう。 
 日本では〝終戦記念日〟と呼ばれる日が、実
 は、自分たちにとって、戦勝記念日であり、
 大事な日と、僕の両親に、伝えきれずにい
 る。
 わだかまりは、あるでしょう」

料理は、半時間経っても、出て来なかった。

二本目のファンタか、ペリエかと迷いながら、目でボーイを探す。と、環奈のお腹が鳴った。

あっはは、すみません、そういえば、この店、注文から気の遠くなるほど、遅いんだ、と名波が、自分の話から、我に返って言った。

「味は、保証しますよ。
 あ、大丈夫、僕は一度、アメーバにやられて
 ますが、すぐ慣れます」

そこか?と思う、名波の天然ぶりに、もはや、どうでもよくなり、すっかり打ち解けた気分になって、環奈も口を開いた。


「宗教、ていうか、よく分かりませんけど、わ
 たし、クリスチャン、苦手なんです。

 と言って、特定のなにかを、信じているわけ
 ではありませんが」

「偏見ですね」

「ええ、分かってます。

 ミッション系の大学時代、わたし、生活がと
 ても苦しくて。クリスチャンの友人が、教会
 の縁で、良い下宿に住んだり、仕事に就いた
 りするのが、不思議で、羨ましかった。

 今は、分かります。教会とか、宗教とかは関
 係ない。ただその友人に、わたしには無い、
 人望や才覚があっただけ、なんでしょう」

名波の、携帯が鳴った。

「ソユンが、ランチ早くしろって。
 この店、遅いの分かってて、怒られちゃいま
 した」

参ったなぁ、と店の奥に行きながら、厨房に現地語で、あれこれ指示を出して急がせると、

「先に届けてきます、どうぞ先に食べててくだ
 さい」

何人分なのか、両手に、テイクアウトの箱が入った大袋を下げて、名波は、小走りに車へ急いだ。



料理はたしかに、美味しかった。

アメーバのひと言に、怖じ気づいて、生野菜と、食後のアイスクリームは、やめておいた。

厨房からもらった、大きな骨に、ティンクが夢中で、かぶりついている。

ひと雨来る前に、帰りましょうかと、名波が腰を上げた。


「久しぶりに、日本語で思い切りしゃべって、
 つい、話し過ぎちゃいました」

車のエンジンをかけながら、名波が、少し恥ずかしそうに言った。

CDが、大音量で鳴り出す。
流れたのは、このまえの讃美歌ではなかった。

前奏のストリングス、ピアノに、低く、しゃがれた男の歌声が続く。

初めて聴く声なのに、不思議に懐かしい。

Waltzing Mathilda, waltzing Matilda, you′ll go waltzing Matilda with me…

『Tom Traubert's Blues』Tom Waits


この歌詞、どこかで、聴いたことがある・・・

思わず、ハンドルを握る、名波の横顔を、問いかけるように、見つめてしまった。

視線に気づいた名波が、

「トムウェイツですよ、
 僕にとって、音楽の神様みたいな人です。

 イギリス公演、行きたかったなぁ、近所にい
 たのに…あー、行けばよかった」

ナナミ、一生の不覚です…と、本当に悔しそうだ。

「僕とソユンは、以前ロンドンに住んでて、僕
 ら、そこで知り合ったんです。
 聖歌隊で、彼女は一番、歌がうまかった。

 まぁ、僕も、ですけどね」

悪びれもせずに、言う。たしかに、声の良い男だ。

で、このトムウェイツ?

「朝、彼女を送りながら、これを大声で歌う 
 と、ソユンが笑うんだ、やめてーって」

分かる気がした。

「うふふ…わたしも、職場で、振り付きで、ア
 ンパンマンや童謡を歌ってるのに、家では、
 ニルヴァーナとか? 爆音で、頭振って」

それは面白い、名波が、声を上げて笑った。


夫と付き合い始めたころ、環奈が、洋楽ばかり聴いていたので、カラオケで一緒に歌う曲がない、と呆れられた。

「社会なのか、なんなのか、どこにいても、居
 心地悪いというか・・・

 どこかの議員が言った、生産性のない人間、
 というの、知ってます?

 自分は、居場所がどこにもない、ときどき、
 そう思ってしまう」


あれ、音楽の話をしていたのに、わたし、まったく違う話してる・・・

「そんなとき、彼らの音に、カートの歌に、も
 のすごく救われるんです」

日本から遠く離れた土地で、自分が好きだった音楽の話を、するとは思わなかった。

そして、自分は、だれかとずっと、そんな話がしたかったのだと、気づいた。



(続)

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