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『Tom Traubert's Blues』vol.1【小説】

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機体は、ふわりと上昇した。

翼の下には、赤茶けた大地と、緑の丘の連なり。
ノルウェイの森でも、ビートルズでもない、

流れるのは・・・



仕事をやめて、夫の海外赴任について行くと決めたとき、思いのほか、心が揺れた。

結婚して十年。
共働きで、気づいたら三十代も半ばを過ぎていた。
子どもは、自然に任せていたが、妊娠しなかった。
夫婦ともに、実家の両親は早くに亡くしていて、孫をせっつかれることもなく、夫も自分も、とりわけ子どもを持ちたいという思いもなく、今まで暮らしてきた。


「旅行でいいじゃん、行ってきなよ」

高校時代からの親友の由美は、環奈と正反対のリケジョで、国立大の建築に一浪して進み、卒業後は、大手ゼネコンでばりばり働いていた。
環奈と同じ年に結婚し、その三年後には子どもを授かり、今は、二人目の出産育休中だ。

赴任先は、遊びに来てよ、と環奈から言うには、遠い国だった。
アジアやヨーロッパなら、気軽に行けたのに、と由美も言った。

「それで、いろいろ見てきて。環奈らしく」

いつだって前向きで、コツコツ頑張る、この親友に、ずいぶん助けられてきた。
今も、自分の替えなど、実際いくらでもいそうな仕事で、子育てに邁進しているわけでもない、じきアラフォーの環奈を、ぽんっと背中を押すように、送り出してくれる。

「大丈夫だよ、一番、必要としている人が、一緒なんだから」

由美は、泣き出した赤ん坊をあやしに、となりの部屋へ向かいながら、言った。


高校時代から、ぼんやりだった環奈とは違い、由美は、サッカー部のマネージャーや、いくつかの文化部を掛け持ちし、地元の有名カレー屋でバイトまでしていた。
人に囲まれ、忙しかったはずなのに、なぜかいつも、自分と一緒だった気がする。

高校近くに新しくできたカフェ、試験明けのレイトショー、先輩バンドに熱を上げ、入り浸ったライブハウス・・・
地方都市の進学校で、真面目でしっかりした生徒が多い中、由美にとって、環奈は、格好の遊び相手だったのかもしれない。それで、良かった。

それが、良かった。

つるんで、バカを言いあい、街をふらつきながら、由美の楽しそうな顔を見るのが、一番、好きだった。


泣き止んだ赤ん坊が、おむつを変えられ、さっぱりした表情で、由美の乳房に吸い付いている。

一番、必要としている人。
それは夫がわたしを? それとも、わたしが夫を?

赴任への戸惑いは、夫との暮らしへの戸惑いに、通じていた。 


(続)


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