みつ

おしゃべり器用貧乏。

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おしゃべり器用貧乏。

最近の記事

何も覚えていなくても

何もかもがはじめての体験だった。できることをすべてやっても他人でしかなくて、ただ無力感に苛まれた。この世に命を生み出すことの壮絶さと向き合い、代わってあげられないことへの罪悪感も抱えながら、僕は出産という奇跡にやっとの思いで立ち会った。 2022年の11月末、奥さんが妊娠していることがわかった。忙しい平日の朝の時間、トイレから出てきた奥さんが「なんか、妊娠したかも」と一言。あまりに唐突だったから少し時間が止まったけど、ふたりともこらえきれず笑った。驚きと嬉しさが混ざった幸せ

    • 放課後の教室が好きだった

      枠から解き放たれる瞬間だ。 分刻みのスケジュールはもうない。みんなが帰っていくなか、選ばれた存在になったような優越感を感じながら、自分の席じゃない席に座って、いつも話せないような話をする。誰もいない教室から廊下に、僕らの声だけが響く。そんな終わって欲しくないような特別な時間が、放課後の教室にはあった。 放課後の生徒会室でも、閉店間際のフードコートでも、夜の大学のグラウンドでも、深夜の締め作業をしていたバイト先でも、同じことを思った。 誰もいない空間に、僕の好きな人だけが

      • GWと耳裏の日焼け

        腕と太ももと腰とふくらはぎの痛み。得たものの代わりに背負ったものだ。 僕がGWに「婿の使命」を果たしに出かけたのは、奥さんの実家だった。 目的は、たんまりとご当地名物をいただくこと。ではなく、田植えの戦力になること。 奥さんの実家は兼業農家。かつて田植えは親戚一同が集まるビッグイベントだったようだけど、その親戚も高齢化やライフスタイルの変化に伴って集まりが悪くなってしまったとのことだった。 そんな折、娘がいまだ20代の僕を連れてきたとあれば、戦力とするほかないだろう。

        • 束の間の世界平和

          どうしてこれまで気づかなかったのだろう。 インスタをぼーっと眺めていて、友達のストーリーズにわんちゃんが登場した。 「かわいいな」と思った瞬間にはいいねをつけていて、自分はほんとうに犬が好きなんだと思った。 果たして2年前にみても、僕はいいねしただろうか。 前の職場に飼い犬を溺愛している人がいた。幼稚園に通わせていると聞き、世界はまだ知らないことに満ちているんだと実感した。写真もみせられた。たしかに可愛いとは思ったけれど、心が動いた感じはしなかった。犬の話を少しうっと

        何も覚えていなくても

          急ぎ足で歩いてみること

          うまいことできているもんだ。 やるべきことが増えすぎると、逆になにもできなくなってしまう。 かれこれ何年もの間、この現象に悩まされている。 普段は比較的アクティブな僕である。おそらくこの時点で、キャパシティを超えているんだと思う。とりあえずなんにでも食いついた結果、いつの間にか口のなかから溢れている。間抜けな食いしん坊だ。 ちょうど今日の夜も、なんにもやる気が起きなかった。目の前に積み上げられたことに手をかけなくちゃいけないのはわかってる。一歩が出なかった。 それな

          急ぎ足で歩いてみること

          愛される人になるためには

          遠く感じていた。その濃厚な甘さを知らなかったから。 数年前、僕のふるさと宮崎県に大きな波がきた。東国原知事の誕生である。 すでに「そのまんま東」として名を馳せていたその方は、持ち前の手腕で宮崎県を積極的にPR。きんかん、地鶏の炭火焼き、チキン南蛮、マンゴーといった名産品が少しずつ知られるようになり、新たに高級ブランドも生まれた。宮崎県庁はひとつの観光地になり、県内外から人が集まった。 僕はそのころ高校生で、知事の母校に通っていた。講演にきてくれたこともあって、喋りのテク

          愛される人になるためには

          ナッツでお酒を飲むみたいなこと

          この前まで昼休みのサッカーが楽しみだったし、この前までテスト勉強がつらかった。つい、この前まで。 お酒を飲もうと思って、アテを買いにいった。少し悩んで手にとったのは「ミックスナッツ」だった。 小皿に盛られたミックスナッツをみて、洒落たものをつまみに飲めるようになったなぁと、我ながら驚いた。 お酒なんて、もっとしょっぱいもので飲むのが当たり前だった。お酒なんて、飲み会のときだけ飲めばよかった。お酒なんて、苦くて飲めたもんじゃないと思っていた。お酒なんて、飲めるようにならな

          ナッツでお酒を飲むみたいなこと

          過酷な運命の歌

          僕だったら手段は選ばないよ。明らかに運命の分岐点だもの。 はじめて聴いたときから、「少し悲しいメロディーだな」とは思っていた。でもまさか、そんなおそろしい曲だったなんて。 小学生のころ、家に壁掛け時計があった。ファンタジックだけどどこか無機質な人形がついた時計で、時間になるとその人形たちが踊って、曲が流れるしくみだった。 曲はありがちなクラシックとかじゃなくて、当時流行っていたJ-popだった。「浪漫飛行」とかあったような気がする。 僕はそのなかに、心がざわつく曲があ

          過酷な運命の歌

          ないんじゃなくて選べない

          後悔するけど、たぶん時間を巻き戻しても同じ選択をすると思う。 会社で面談があった。 査定の話が終わったあとに、「会社にすごく不満があるとかないですか」と聞かれる。「そういうことはないです」と答える。本音だ。 そのあと「やりたいこととかありますか」と聞かれる。ある。いや、あるはずだ。答えを探すけど、ちっともまとまらない。唸ったあとに思考の断片を吐きだすも、結局なにがいいたいのか伝わらないし、自分でもわからない。 僕のあとに同僚も面談した。終わってからすぐに「〇〇さん(先

          ないんじゃなくて選べない

          たやすい自分が好きで嫌い

          憧れは憧れ。自分は自分。 前の会社で退職を告げたとき、「環境に左右されてしまうタイプなんです。環境を変えないとダメなんです」という僕に対して部長は、「それは甘えだ。そんな考えじゃどこにいっても通用しない」といった。部長が間違ったことをいってるとは思わなかったけど、僕の心には届かなかった。僕は「そういう人間」ではないと思ったから。 僕は「たやすい」人間だと思う。よくいえば適応力があるし、わるくいえば流されやすい。そしてそんな自分のことが、好きで、嫌いだ。 昔から、芯がある

          たやすい自分が好きで嫌い

          なにをよりだれと

          いつかまた変わるのかもしれない。少なくともいまはそうだ。 あれやりたいな〜これやりたいな〜という欲望は尽きないわけだけど、少し形がかわってきたのかなという気がしている。 なにをよりだれと 「なにを」より「だれと」を優先したくなった。というか、「なにを」と「だれと」がセットになったというほうが正確かもしれない。ちなみにこの「だれと」には「ひとりで」も含まれている。 これまでは「あれがやりたいな〜」と思ったら、実現できるチャンスをどこへでも探していた。それがいまは「あれが

          なにをよりだれと

          ちゃんと考えないこと

          我慢できないほうだと自覚している。 この前のでんしゃエッセイで、国語辞典の話をした。そこでは触れていなかったけど、三省堂国語辞典の編集委員である飯間さんは前にもとり上げたイベントのなかで、「人々の相談相手になる辞典」をつくりたいと話していた。 ただ意味を解説するだけではなく、時代に即し、読み手に即し、「いま」の悩みを解決してくれるような辞典。 小説『舟を編む』で大号泣した経験をもつ僕は、これを聞いて感銘をうけた。 ここまでであればたくさんの仲間がいると思う。ただ、なに

          ちゃんと考えないこと

          足元で寝ない犬

          犬の寝る場所には意味があるらしい。 最近、愛犬と一緒に寝るようになった。 飼いはじめた頃、せまいゲージに入れてリビングに置き去りにしていたのがいまでは信じられない。習慣というのは恐ろしいものだ。 愛犬と愛犬のおもちゃを抱えて寝室にいく。寝室に放つと、すぐさまベッドを占領される。図々しさは誰に似たのだろうか。 僕が寝はじめるのにあわせて愛犬も寝はじめるのだが、場所はその日によって違う。最初は足元が多かったのだけど、いまでは頭の上か胸元が多い。 頭の上とか胸元は、なんと

          足元で寝ない犬

          「45年間ありがとうございました」

          45年間。僕には想像もできない。 犬の散歩ではじめて通った道に、昔ながらの電気屋さんがあった。店名は「(地名)テレビ」。まじりっ気がないストレートないい名前だ。ひと目で親しみを覚えた。 近くまでいったとき、正面に「完全閉店セール!45年間ありがとうござました!」と書かれているのがみえた。どうやら、閉店が決まっている電気屋さんらしかった。 この土地にきてまだ3週間の僕が、この土地で45年間ものあいだ人々の生活を支えた電気屋さんの閉店を目撃している。ものすごく不思議で変なこ

          「45年間ありがとうございました」

          正しいってなんなのか

          正しけりゃいいのだろうか、そもそも正しいってなんなのか。 三省堂の国語辞典を編纂している飯間浩明さんの記事を読んだ。2017年に本を出版した際のトークイベントを書き起こしたもので、そこで飯間さんは辞書のあり方について話していた。 そのなかで、ネット辞典『大辞泉』編集部の板倉さんが「利用者が辞書に求めているのは個性ではなく、求めている答えがあるかどうかだ」といい切ったというエピソードがあった。 数年前の僕であれば、この考えに真っ先に賛成したと思う。だってその通りじゃないか

          正しいってなんなのか

          飽きたくないならそわそわすればいい

          落ち着きがないのは、サッカーがあるからだ。 プレイヤーだった時期こそ小中学校だけだったが、昔からサッカーがすきだった。物心ついたときから、家に日本代表のユニフォームを着た父がいたことも関係しているだろう。 2002年のワールドカップ決勝でオリバー・カーン擁するドイツが負けたときには、手もつけられないほど号泣した。 きょうは日本代表のワールドカップ出場が決まるか決まらないかという大一番。帰ってからみるので結果は黙っておくように。 おかげで1日じゅうそわそわしていた訳だけ

          飽きたくないならそわそわすればいい