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地元の本屋さんが無くなっていた

よくあるドラッグストアになっていた。
数百メートル離れたところにあるのに、また作るのかとなんとも言えない気持ちになる。

その本屋さんは中学生で引っ越してきた時には既にあって、私の読書ライフを大いに支えてくれていた。当時はまだ漫画の立ち読みも当たり前にできて、ちょっと行ってくるーと言って本屋に入り浸ることも可能だった。一度本屋に行くといつ帰ってくるかわからないと、母にはよく言われたものだった。

私の愛読書、ハリーポッターも毎年出る度にその本屋さんに買いに行った。ワクワクと自動ドアを潜り抜けたのを覚えている。

追っている小説の新刊が出ればいそいそと出かける。インクと紙の香りが充満したその店内は、私にとっては何時間でも入り浸れる夢の国だった。


自分の財布に入っているお小遣いと、自分の手に持った数冊の本、今月は残金でやっていけるかなと頭の中で散々計算して、最後は買ってしまえ!とレジに持って行くのだ。思春期は自分が何を読んでいるのか親にも知られたくなかったのでカバーをかけてもらっていた。

ただどんどん増える本にカバーが掛かっていると、探すのが面倒になりあることさえ忘れてしまうことが増え、カバーを掛けてもらうのはやめた。なんなら家の本のカバーを全て剥いだ。紙の山を隣に築きながらも、本棚に自分の好きな本が作家ごとに並んだ壮観な本棚を見て大満足したし、一人暮らしを始めてからも本棚は持っていった。

成長して大人になってからも本は好きだった。読む時間が取れなくて積読メインになっても、本屋通いは趣味と言っても良い。本に囲まれた空気を吸い、目の前に無数に広がる本棚を見るのが好きだったからだ。

紙だとどうしても読む場所が限られてしまい、決まった作家の本以外は電子書籍に移っていた。どんな場所でも、すぐに取り出して読める電子書籍はとても便利で益々紙からは遠ざかっていた。

そして気づいたら地元の本屋がなくなっていた。

私がああだこうだ思い出話をしても、無くなってしまった地元の本屋さんは帰ってこない。
ある意味ショールームとして楽しんでいた本屋さんへの仕打ちが返ってきたという事なのだろうか。


電子書籍の便利さに気づいてしまった私は、もう完全中身ユーザーには戻れない。でも紙である良さは私は勿論知っている。
昨日も触れたが歳の離れた友人に漫画を貸すことができたのも、紙であったから。時を超え年代を超え分かち合う喜びを久しぶりに思い出した。


瑣末ながら入店して本屋として楽しませて頂いた時は、お礼に本は購入することにした。その時買う本は出来れば光って見える本がいい。これは役に立ちそうだと選ぶ本ではなく、引き寄せられて出会う本。

そう考えると中学生の頃の私がしていた、無邪気に本を選ぶ場所に戻ったような気がした。


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