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くるくる電車旅〈将軍たちの身長〉

開花のおくれた桜が満開になった日曜日、姉をさそって、電車を乗り継ぐ旅に出た。
行く先は、三河大樹寺。

「ついてくわ。よろしくね」
姉は、にっこり微笑んだ。
彼女は、ひとりで電車などに乗ったことのない深窓の人。

名鉄東岡崎駅から名鉄バスに乗り、大樹寺で降りた。
バス停の名前は大樹寺だが、まわりは住宅ばかり。寺院はあたりに見当たらない。

姉は、バッグから地図を取り出そうとする。
後方から、黄色のトレーナーを着た女の人が、歩いてきた。
わたしは、その人をよびとめた。

道をたずねると、分かれ道までいっしょに歩いてくれた。
「大河ドラマでお知りになったんですか」
歩きながらの問いかけに、わたしと姉は、一瞬の間をおいてから、あはは、うふふ、と笑った。まあ、そんなところ。

信号のある交差点で、黄色いトレーナーの人とわたしたちは、右と左に別れた。
「感じのいい人だったね。高校生かな」と、わたしがいうと、
「まさか。30歳ぐらいよ。お化粧してらしたわ」と、姉。
姉は、あの人の顔を見ていたのだ。
わたしは、黄色いトレーナーしか見ていなかった。

松平家と徳川将軍家の菩提寺として名高い三河大樹寺。
駐車場側から境内に入って行くと、数人の観光客が、山門の方を向いて、「見えた」「見えた」とよろこんでいる。
山門とその南の総門を通して、岡崎城が見えるのだという。
目を凝らすと、見えた。
山門の先の総門の真ん中に、岡崎城が、親指よりも小さく。
総門は、岡崎市立大樹寺小学校の南門になっている。
わたしが、あの小学校の卒業生なら、一生の自慢にするだろう。

境内の桜の木は、満開に花を咲かせていた。
枝垂れ桜が、とりわけ美しい。

本堂の見学は有料。500円。
将軍御成の間とか、大名控えの間とか、まるでお城の御殿のよう。ここで将軍家の法事をしたのだろう。
大名の石高によって、襖絵の豪華さが違う。
封建時代らしいあからさまな差別だ。

順路の矢印に誘導されて位牌堂へ。
歴代の徳川家将軍の位牌が安置されている。
十五代慶喜の位牌がないのは、逝去したとき将軍ではなかったから。

位牌はどれもご本人の実寸大だという。
亡くなったときの身長と同じ。
わたしたちは、ひとつひとつ、見て歩く。
「意外にみんな小さいね」
わたしの感想である。
いちばん高いのは家康で159センチ。
160センチを越えた将軍はいない。
ほとんどが、157センチとか153センチとか。
当時の男性の平均が、そのぐらいだという。

ずらりと並んだ14の位牌の中に、ひとつだけ極端に小さい位牌があった。
5代将軍綱吉。124センチ。享年64。
わたしたちは、その位牌の前にたたずんだ。
「ホルモンの病気だったらしいって」
位牌の前に、説明書きが貼ってあった。
「亡くなる前に、遺言できなかったのかしら。位牌は、五尺に作れ、と」
「それは·····」
しようと思えばできたかもしれない。
でも、綱吉は、そんな遺言はしなかった。
34歳で将軍職に就き、64歳で亡くなるまで、30年もの間、人の前に出て、人の上に立ち続けた。
異様な矮軀も含めて、これが5代将軍綱吉であると、後の世まで伝える決意をしたのかもしれない。
兄たちが次々と早逝したために、めぐってきた将軍職。
学問が好きで優秀な人だったという。
学者の家に生まれていれば、異様に小さな躰を人前にさらすことも少なく、好きな書を読んで 一生を送ることもできただろうに。
ままならない人生。

帰りは、バスには乗らず、愛知環状鉄道線の大門駅まで歩いた。
高架鉄道の高所にある駅なのに、エスカレーターもエレベーターもない。
「膝軟骨が……」という姉は、高い階段を見上げ、静かに憤った。

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