くるくる電車旅〈物語の誕生〉
名鉄小牧線間内駅のすぐ東側に、武将の銅像が立っている。
お城や古墳や天下の奇祭。
小牧線の電車には、よく乗る。
間内駅で降りたことはないが、車窓からいつも、銅像をながめていた。
その銅像の武将様が、浅井長政であることは、ネットで調べて知っていた。
ゴールデンウィークの曇天の一日、わたしは、間内の武将様に会いに行くことにした。
間内駅は、名古屋空港にほど近い。
小牧市と春日井市の境にある小さな駅だ。
西から降りれば小牧市。
東から降りれば春日井市。
東口を出ればすぐ、柵に囲まれて武将様が立っている。電車の窓からも見えるよう、高い台に乗って。
その台には、『浅井長政公』と、名板が貼ってある。
数段の階段を上って、柵の中に入り、銅像を見上げた。
柔和な顔。武将というより仏様のようだ。
浅井長政といえば、近江小谷城の城主。
織田信長の妹との政略結婚でよく知られている。
なぜ、近江から遠く離れた尾張の間内に浅井長政が……。
理由を書いた石碑もあった。
ここは、浅井長政の子孫の屋敷跡だという。
千坪を超える大きな屋敷だったそうだ。
天正元年、近江小谷城が、信長に攻められ落城。
そのとき長政の側室だった八重という人が、美濃に落ちのびた。
七郎君という男児を連れて。
七郎君がこの地に移住したのは、二十年後の文禄元年のことだった。
文禄元年といえば豊臣の世。
腹ちがいの姉様が、天下人の寵愛を一身に受けていたころだ。
七郎君が望めば、仕官もできただろう。
しかし、七郎君は、農民としての人生を選んだようだ。子孫は繁栄し、再興された浅井家は、庄屋もつとめる名家となった。
銅像は、昭和57年に子孫の手で立てられた。
八重さんは、ほんとうに長政の側室だったのか。
七郎君は、長政の子だったのか。
きちんと検証された史実ではなさそうだ。
真実と嘘が混じる貴種流離譚。
物語の誕生。
七郎君が興した浅井家は、遠くの県に移り住んで、もうこの地にはないという。
曇天の下、銅像の浅井長政の目は、遠い空の彼方に向けられていた。
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