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私の3月11日

その時、私は東京の東青梅市役所にいた。
関西在住なのだが、その日は仕事で東京に来ていた。
建築関係の仕事をしており、依頼があった計画土地の視察と役所での調べ物がその日の仕事であった。

その時

5階の窓口で質問をしていた時、大きな音とともに、建物が大きく揺れた。
阪神淡路大震災を自宅で体験したこともあり、まさしくそれと同じくらいの地震のように感じた。

庁舎に入る際、「この建物は免振工法で建てられており・・」等と説明された看板か何かを見ていた。建築の仕事をしているため、「へえ~、立派な建物だなぁ」と関心を持っていた。
「しっかり建てられているから、この建物は安全かな」なんて冷静に考えられたのも、立派な建物だったからかもしれない。

ただ、その揺れによって、市役所内の空気は一変し、騒然となった。
一目散に出口の方へかけ急ぐ人や、机の上などを片付けようとする人、どこかへ電話をかける人など、とにかくただならぬ雰囲気ではあった。

ご存じの通り、東青梅市は激震地からは比較的離れており、そんなに被害はなかったと思う。
事の重大さを知らぬまま、帰路につこうと駅へ向かう。徒歩ですぐの距離だった。

帰路につく

東青梅駅に着くと、「運行停止」の文字。
さらに復旧のめども不明とのことだった。
この時、まだ私は事の重大さに気づいていなかった。

「いつ動くかなあ。帰るの遅くなるなあ」などと
のんきに構えていた。

そこで、さっき寄った建築計画地の古家にお住いの‘相談依頼者のお父様’の事が気になった。
「あの建物古かったけど、あの方は大丈夫かな」と思い、先ほど視察した建設予定地に歩いて戻った。
ここも距離がそう遠くはなかったので、20~30分で着いたと記憶している。
声をかけると「おー、結構揺れましたねえ」とお父様の声。とにかく大きな被害はなかったとのことで、一安心。駅へ引き返した。

電車の運行再開待ち・・

駅へ戻ると、まだ「運行停止中」。
駅員に聞いても、めどは立ってないという。
行く当てもないため、近くの喫茶店に入り、時間をつぶす。

IPADなどで、情報を見ると・・・、
「え?、かなりの大惨事?」と、初めて結構大きな災害であったことに気づいた。
なかなか繋がらなかった携帯電話に、当時の部下からの電話が入り、「大丈夫ですか?大変なことになってますね」と。
電車が動かなく、帰れない旨告げると、「それどころじゃないんじゃないですか?泊るところ探した方が良いのでは?」との忠告を受ける。

ようやく焦りだす

さすがに焦りだした。今日中に帰れないかもしれない。泊る所もない。
明日の朝から関西で打ち合わせがあるが、間に合うのだろうか?。(ここはまだのんきな悩みかも知れない)。

夕刻にさしかかり、まだ電車は動かない。
「動かないとまずい」。行動を始める。
近くに宿泊できるようなところは無さそう。インターネットで探そうとするが、なかなかうまく繋がらない。
とにかく動く足もないため、タクシー乗り場へ向かう。既に結構な行列。聞けば、30分に一台ほどしかタクシーが来ないという。
タクシーを待ちながら、携帯とIPADを使って泊るところを探す。
うまく繋がらない、かろうじて分かった連絡先に電話をしても「空室無し」。
昔仕事をともにした仕事の同僚など、近くにいそうな人には電話してみるが、ことごとく繋がらない。

ますます焦りだした。
タクシーに乗れない。泊るところがない。
かなり、寒くなってきた。3月だったので、春用の上着一枚で来ていた。
一時間。
二時間。
手がかじかんで、震えるようになってきた。
並んでいるので、トイレにも行けない。
この間、家族からも心配して電話をかけてもらってたようだが、その日は、かろうじて一回繋がって少しだけ話ができた程度だった。

「今日寝る場所がない」
とはこんなに恐怖なんだ、と初めて感じた。
毎日、寒さを心配することなく眠れている境遇に感謝した。

救いの手

一向にタクシー待ちの列は進まず、後ろは長くなるばかり。
あるタクシーの運転手が気を利かして、
「○○方面へ行く方、良かったら乗り合いで乗ってください」と。

「○○方面」知らない地名だったが、思わず手を挙げて「お願いします」と言った。寒さから解放されたかった。

乗ったタクシーの中で、行先までの間で、「ホテルでもスーパー銭湯でも、どこか泊れそうなところは無いですか?」と運転手に尋ねた。
快く、‘駅からは少し離れているため混雑して無さそうな‘スーパー銭湯のような所を教えてくれた。
「そこにお願いします。」と即答した。

暖かい場所の「ありがたさ」

銭湯につくころには、辺りは真っ暗だった。
中はびっくりするほどの‘大混雑’。「それもそうか。。」。
受付の方から、「寝る場所はありません。廊下かベンチなどでお休みください。」と。
それでも十分にありがたかった。銭湯のお湯が身に染みるほど暖かかった。
風呂から上がり、ようやく落ち着きを取り戻し、TV画面をみた。

津波。惨事。

びっくりした。少しは大事だと覚悟していたが、目にしたのは‘見たこともない津波’の映像だった。
街中が流されている。人が助けを求めている。
そして、多くの方が亡くなっている。

心臓の鼓動が鳴りやまない。なんて悲惨な、、大惨事。

少し前に、自分が「すごい不幸」だなんて感じていたことが恥ずかしくなった。今、暖かい部屋に居れることが、なんと恵まれた事なんだと。

恥ずかしながら、
物事は自分中心に考えてしまう。
この日、自分が不幸だと本気で感じてしまった。
大した不幸では無いと、後で思い知らされた。

周りを見る。他人を慮る。
出来ていない。
やってるつもりなんだ、と改めて考えさせられた。

奇跡的に、翌日の仕事に間に合う

スーパー銭湯の中でも、翌日の仕事が気になっていた。
調べると新横浜からは早朝の新幹線が動くとの情報があった。
タクシー会社に、繋がるまで何度も電話をかけた。
ようやくつながったが、「今は配車できない」との返答。
「配車のめどがたったら連絡をくれることに。

深夜の2時から3時ころのように記憶しているが、配車の連絡があり、かなりの距離があるが、新横浜までタクシーに乗った。

新横浜では、あちこちに駅舎の中で眠る人が居て、JRからは毛布などが配られていた様子だった。
着いたのは5時前後、始発が出る少し前だったので、そのまま切符売り場に並んだ。

「新大阪まで行ける、一番早いのをお願いします」
おそらく、始発から2、3本目の新幹線に乗れたかと思う。
電車を乗り継ぎ、翌日の10時の滋賀県での打ち合わせに間に合った。

翌日に、普通に仕事をしていることが、なんか不思議な気分だった。

それから10年

被災された方、そのご家族、に比べると、私の経験はほんの些細な事。
如何に苦しく、大変な惨事だったのかは、当事者にしか分かりえないと思う。

ただ、「あの日」に味わった「心の動揺」は、私も忘れられないものとなった。

阪神淡路大震災を経験しているはずの私だが、災害から、少しの月日が経つと記憶は薄れてしまう。
経験から学ぶことは多く、また、決して忘れ去られてはならないと感じる。

災害があった時だけでは無く、
他人を慮る気持ちを忘れず、
また、平穏な日常を送れることに感謝をして、
これからを過ごしていきたいと思う。


#それぞれの10年

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