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イギリスに来るまでの経緯

日本法人時代も含めて、勤続10周年を迎えた。
自己紹介代わりに、ここに来るまでの経緯を記しておこうと思う。


人生最初の海の外は、イギリスだった

2000年代初頭。母親の知り合いのつながりで、ロンドンに住む日本人ーイギリス人夫婦の家にホームステイさせてもらった。国内旅行すらほぼ行ったことがなかったのに、一人で国際線に乗り、よく行ったなと思うし、家族もよく送り出してくれたなとも思う。高校生の夏休みだった。

Zone6から2へ、毎日電車とバスを乗り継ぎ、通ったロンドンの語学学校。静かだけどよく喋るポーランド人、よく気にかけてくれたクロアチア人のお姉さん、「なにも発言しないんじゃ、いる意味ないでしょ」と叱咤してきた韓国人のおじさん、ノーブラ・ノーメイク・洗いざらしの髪で教室に滑り込んでくる先生…(冒頭の挨拶後、生徒にワークを与えている間にメイクとブラを装着していた。衝撃だった)

車窓から眺める町並みが日本のそれとは全然違って、見飽きなかった。あの頃は北アイルランド紛争が活発で、通っていた学校の近くで爆破事件があったと聞く度に、ニュースで見ていた出来事が自分の生活圏で起こることが信じられなかった。歯の欠けた物乞いの母娘に声をかけられた光景も脳裏に焼き付いている。帰国してから、ロシア語、スペイン語、フランス語、ドイツ語を独学した。(今はほとんど忘れてしまったが)

大学でアメリカへ

大学は、カリキュラムに留学が組み込まれている学部へ進学した。周りは帰国子女や留学生だらけで、話す言葉、物事の視点、これまでの経験が自分とあまりにも違っていて衝撃を受けた。今度はアメリカを見てみたい、という単純な理由で志望校を記した中から、4番目の大学に留学することになった。

アメリカでの1年間の寮生活は、本当に楽しかった。アメリカ国内はもとより、様々な国から集まる同年代と遊びや勉学をともにできたことは一生の財産だ。Facebookやmixiで面白いほどに人脈が広がり、色々な人に会いに行った。

大学入学と同時に、中国語の勉強も始めた。中国映画「ラストエンペラー」「HERO」「LOVERS」などの世界観に憧れ、中国人の先生の熱心な講義が面白かったこともあり、中国語学習にのめり込んだ。上野の大兵馬俑展を見て居ても立っても居られず、上海・蘇州・同里・北京・西安を巡るツアーに一人で参加した。

留学終了後、もっと見聞を広めようと様々な国へ旅をした。とは言っても、アルバイトで溜めたわずかなお金で行ける範囲の、低コストバックパック旅行ばかりだったが。ガラケー時代で、国際ローミングなんて使い物にならなくて、ロンリープラネットを片手に、人にたくさん話しかけながら目的地へ向かう旅だった。イスラエル、ヨルダン、エジプト、オランダ、フィリピン、中国、台湾へ行った。

まずは日本で職業経験を、と思っているうちに数年

またアメリカへ行きたい!とぼんやり思っていたが、まずはお金を貯めるためにも日本で就職することにした。国際協力関係の機関や職種はことごとく受からなかった。そりゃそうだ、就活戦線の厳しさを全然理解していなかったのだもの。卒業間際になって、政府機関や国際機関などと関わる会社から内定をもらった。

社会人生活は想像よりもずっと楽しく、数え切れないほどの徹夜や泊まり込みをしたが、やり甲斐があった。国内出張の機会が多く、日本の様々な都市を訪れるのも醍醐味だった。何度か海外出張の機会ももらえて、初めてビジネスクラスを体験した日のことは鮮明に覚えている。ぎょっとするくらい、貯金はできていなかったが。

アメリカへ戻る、という計画はなんら具現化しないまま、20代の終わりが見えてきた頃。元同期や大学時代の友人に触発され、転職サイトを見たり、中途面接を受けてみたが、うまくいかない。なんとなくYMSへも応募した。その頃は年間で1,000人に権利が付与されるようだったが、運良く当選した。

人生の岐路だった選択

YMSの当選メールを受け取ったと同時に、もう一つ別の道が開けた。新卒で入った会社と取引のあった会社に空きポジションが出て、興味あるかと声をかけてもらえたのだ。すごく嬉しかった。年齢的に最後のチャンスでイギリスへ行くか、憧れだった会社で働くか。

私は迷わず転職した。もちろん、度重なる面接や、前職退職時の苦悩はあったが。新たな職場では、大阪での暮らし、東京での暮らし、中国法人への短期赴任、国内外出張、グローバルとの協業など、想像していた以上に様々な経験をさせてもらった。

そしてイギリス転籍

最初に入ったチームから社内異動を経て、日本にいながらグローバル所属、という組織で仕事をするようになると、ますます世界が広がった。APACとしてグローバルにどう存在感を示すか、ローカルの期待値とオフショアのクオリティの差をどう埋めるか、立ち上げた組織をどうスケールするか、そしてどうチームメンバーをマネージするか。ずっと手探りで寝不足で大変だったが、上司やチームメンバーに恵まれ、「経験がないところに飛び込むのは怖い」という思い込みを払拭してもらった。

そんな折、本社があるイギリスでの人材開発研修に参加できることになった。私を推薦してくれた上司には感謝が尽きない。研修は3ヶ月空けて2回、1週間の現地参加で行われる。コロナ禍で海外出張が極めて少ない時期に、恐る恐る渡航した。初めて訪れた街は、爽やかで美しく、心惹かれた。ここで生活し働けたら、どんなに素敵だろうと思った。

3ヶ月の間もグループ課題と個人課題が与えられて大変だったが、頑張らないと今後日本人が選ばれないかもしれない!という変な責任感で必死にこなした。2度目の現地研修も終わり、日本での平常業務に戻ったとき、グローバルの本拠地で働きたい!という気持ちが強くなった。

社内向けの人材募集ポータルを検索すると、私の経験にぴったりのポジションが見つかった。しかも勤務地はまさに私が希望していた本社所在地である。しかし、経験は合致すれど、前の部署の業務と似通う内容に少しのためらいがあった。上司や同僚に相談し、悩んだ末に応募することにした。ダメで元々だ。

できる限りの準備はした。応募書類の添削、英語面接対策講座の受講、コーチングの受講、上司ネットワークを活用してのリファラル依頼、ポジションを知る人への聞き取りと相談、プレゼンスライド作成など。それらが奏効したのか、採用してもらえることになった。後から聞くと、そこそこの数の応募があったらしいので、本当にラッキーだった。

元々グローバル所属ではあったものの、日本法人から英国法人への転籍という取り扱いで進められることになった。決まってから渡航まで4ヶ月ほど、業務引き継ぎや国際転居の手続きで大忙しであったが、片道航空券を握りしめて(厳密には、Eチケットなので眺め尽くして?)渡英した日のことは、きっと一生忘れない。

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細かい描写は端折ったつもりだが長くなってしまった。
振り返ってみると、辛かったことも含めてすべての経験が現在につながっているなぁと思う。
先になってみないとわからないことがたくさんある。
そして、いま奮闘していることの答えは先にある。


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