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自己紹介(週末日記#12)

12回目、約3ヶ月目の日記更新にして自己紹介をしてみようと思う。自分の生い立ちを振り返るのと同時に、僕に関わってくれている方々が、僕のことをより理解できるような記事になることを願っている。


幼少期から高校まで

在日朝鮮人として生まれる

まず、自分を知ってもらう上で語らなければならないのは、僕のルーツについてだ。僕は2002年、東京で在日朝鮮人として生まれた。在日朝鮮人とは、主に、朝鮮の植民地時代、いわゆる戦時中に日本にあらゆる理由(労働、学問、結婚 etc)で渡ってきた朝鮮人たちが、植民地解放後(戦後)も日本に残り続けた人たちのことを指して言う。僕の場合、曽祖父がこの時代に日本に渡ってきた。すなわち、僕は在日朝鮮人4世である(ルパン三世みたいに)。

よく言われることが、日本で生まれ育ったならほとんど日本人と変わらないじゃないか、ということだが、これは半分正解で半分不正解だ。半分正解と表したのは、仰る通り、僕らは日本で生まれ育ったため、価値観や言語、偏見など様々なことが日本人と似通っている、と言うよりもほぼ同じである。名前や国籍を明かさなければ区別できる人はいないだろう。一方で、半分不正解と言ったのには、朝鮮学校での教育が大きく関わってくる。

12年間の朝鮮学校での民族教育

僕は朝鮮学校で小学校から高校まで12年間教育を受けてきた。科目や授業時間などは、どこにでもある私立の学校とほぼ変わらないが、それに加えて、朝鮮語と朝鮮史の授業がある。そのため授業時間を確保するために、小学校の時から土曜日も授業があった。さらに、校内での使用言語は朝鮮語(韓国語と同じ)であるため、小学2年生に上がる頃にはほとんどの子供達が、友達や先生との会話、授業も全て朝鮮語で行なえるようになる(幼少期の言語習得の速さは尋常でないと改めて感じる)。これらが日本学校との大きな違いだ。

半分不正解と表したのは、このような学校で教育を受けて、朝鮮人のコミュニティーで育った僕たちのアイデンティティーは、純粋な日本人でもなく、朝鮮人でもなく、韓国人でもない、”在日朝鮮人”であると言う理由である。僕たちは自分たちの過去のルーツを理解し、なぜ今日本にいるのか、自分は何者なのかと言うことを幾度も考える(学校で同級生たちとそのような議論を交わすことも稀ではない)。もちろん、アイデンティティーに対する概念の相違は存在するが、朝鮮学校に通った人に「あなたは日本人ですか?」と聞いて躊躇なく首を縦に振る人は少ないだろう。

このような複雑な環境で育つ思春期の学生たちの間では、もちろん意見の衝突が存在する。例えば、いい大学に行くためには高校からは日本の学校に行くべきだ、だったり、将来、在日コミュニティーを支えるためにの進路を考えるべき(例えば、朝鮮大学に行き、朝鮮学校の教員や、在日企業の職員として働くこと)だ、であったり、コミュニティーを守っていくことが第一優先であると言う考え方と、個人の成功や展望を優先する考えとの衝突が多く存在していた。これは在日朝鮮人に限らず、どんな集団でも同じ傾向が見られるだろう。例えば、日本の文化を重んじて守っていこうとする人や団体、地元に残ってその地域の発展に貢献しようとする考え方をもつ人々、などがそれらに値するだろう。これらのような行動は、民族やコミュニティー、ひいては集団行動を必要とする人間の性なのかもしれない。

サッカーと大学受験に耽った高校生活

そんな葛藤もあるなか、僕は、小中と続けて高校も朝鮮学校に通うことにした。理由の一つとして大きいのは、小学校から続けていたサッカーをするためだった。僕が通った東京朝鮮高校は東京都でベスト4になるほどの実力があったため、蹴球部に入部し、全国大会出場を目指すことが最も大きいインセンティブになっていた(実は、先輩が怖すぎるのと、大学受験に集中しようかという理由で、他の部活も悩んだ)。

高校2年生のとある試合(12番が僕)

朝鮮高校に入学を決めた頃から、日本の大学で建築学を学ぶ(中学生の頃から、建築士である親友の父親に憧れて建築家になることを志していた)ために受験を視野に入れており、その当時から塾に通い始めた。高校三年間は部活と勉強、ともにいい結果を残そうとなかなかハードな毎日を送っていた。埼玉に住んでいたため、朝練のために5時に起き、塾に行って帰ってくる日には10時を回っていた。家にいる時間はほとんど睡眠だった。僕はともかく、仕事をしながら毎日、駅までの送り迎えをしてくれていた親には感謝しかない。

人生初の挫折

高校三年生、大学受験の準備が本格的になってくる頃だが、僕は、冬の選手権大会がある11月までは部活から離れる考えはなかった。全国大会に出場しようと本気で練習している仲間、その環境から自分一人だけが抜けることはどうしてもしたくなかったからだと記憶している。が、三年間必死に努力したにも関わらず、結局、僕たちは東京都予選2回戦で敗退し、あっさりと引退することになってしまった。

そこから受験勉強一本に取り組むようになったが、すでに受験まで3ヶ月を切っていた。僕が目指していた大学は第一志望に早稲田大学、第二志望に東京理科大学であった。建築学部は、特に倍率が高く、そう簡単に乗り越えられる壁ではなかった。

結果は全て不合格、滑り止めさえも引っ掛からなかった。

正直、今振り返ってみると受験とサッカーとの両立でどちらも中途半端になっていたなと反省するところがある。自分はこの頃から、完璧主義的な性格を持ち合わせていた。部活でも活躍し、大学もいいところに行きたい、そう思うのは素晴らしいことではあるが、それに相応する覚悟と努力が足りていなかった。もっと考えて自主練に取り組んだり、勉強法を模索したりとできたことはもっとあったと感じる。

サッカーも受験もうまくいかず、人生で初めての挫折を味わうことになった。

高校卒業後イギリスへ

留学のきっかけとなった進路講習

少し時間軸を遡ることになるが、高校2年生の冬、学校行事の一つとして行われた進路講習にて、人生が大きく変わるきっかけがあった。進路講習とは一泊二日で行われる行事で、朝鮮学校卒業生の方々(この当時は平均年齢40歳ほど)が自分の歩んできた進路をもとに、どんな生き方があるのかを講義してくれるというものだった。僕はすでに、建築家になりたいという夢があったため、何となくこの講習に参加していた。

その中でも人気の講義があった。その講義は、社名や個人名は控えるが、東南アジアをはじめとした国で、日本に拠点を置きながらグローバルに事業を行っている経営者の方の講義であった。僕も起業には関心があったためその講習に参加することになったが、これが僕の価値観が変わるきっかけとなった。

講義が終わった後、心に残った率直な感想は「こんなに身近な人が世界的に活躍している企業を経営しているのか」と言う感動と憧れだった。どこかで僕は、自分の可能性を塞ぎ込んでいたのかもしれない。というのも、在日という狭いコミュニティーで12年間を過ごしたため、狭い視野しか持ち合わせていなかった。それが自分の価値観や夢を狭くし、可能性を狭める偏見を生み出していたのかもしれない。彼の講義に対する感動が大きかったのもそのためではないか、と今になって強く感じる。

講義を聞いたあと、自分が目指すべきところが、在日→日本→世界へと変わっていくのを強く感じた。「自分も在日社会や日本だけに留まらず、世界で活躍できるような人になりたい」と。そして、その当時から受験勉強は続けるものの、海外留学への憧れが芽生え始めていた。

*ちなみに、講義をしてくださった方をその時から誠に勝手ながら追い続け、現在、ありがたいことにその会社でインターンとして働かせてもらっている。

イギリスの大学へ入学

そんなこともあり、大学受験に失敗したが、気持ちはすぐに海外の大学へと切り替わっていた。というよりも、2月の受験している時から、無理だったら留学だなとエージェントを探したりしていた。親は、塾や受験の費用まで出して、次はさらにお金のかかる留学とまで言い出す勝手すぎる息子に相当呆れていたと思う。

イギリスの大学に入学するには、学校の成績、英語の資格、(建築学部なので)ポートフォリオが必要だった。僕が通った高校は日本では高校と認められていないため、高校卒業認定試験を受けてから大学入試を受けるのが一般的だが、イギリスの大学は朝鮮高校を正式に高校と認めてくれて、高校での成績を利用することができた。高校を卒業してから半年後、ついにイギリスの大学に入学できることになった。その当時はまだ建築家になることを志していたため建築学部を専攻していた(一年後、将来の展望が変わり専攻を変えることになる)。

厳密にいうと、大学への正式な入学はその一年後で、一年目は付属の教育機関で、英語や建築学の基礎を学ぶことになった。渡英当初、英語もままならないまま来たので言語のハードルはものすごく高く感じた。が毎日英語の勉強を怠らずに続け、一年目は成績優秀生として奨学金をもらい大学に入学することができた。これが2022年の夏の話だ。

新たなことへの挑戦

留学を始めてから力を入れていたのはYouTubeだった。留学というのは驚くほど費用がかかるため、誰もが行きたくて行けるものではない。ということを強く感じていた自分は、日本にいる人たちにもっと留学の情報を届け、一人でも多くの人にこの経験を共有できるようにしようと志し、これを始めた。

今だにいくつかの動画は残っている

100本ほどの動画を上げたが、動画のテイストなどを変えるために顔出しをしていた頃の大部分の動画を非公開にし、現在は9本だけ残っている。興味ある方はぜひ覗いてみてほしい。動画編集、撮影など全て独学だが、自分なりに相当こだわっていた。

この活動は一年ほど経った頃に、精神的な疲労、勉学との両立の難しさなど様々な理由が重なり、休止することになった。がその後も懲りずに、留学生同士の交流をさらに深め、就活、ローカルな情報、留学未経験者の相談の場をオンラインで提供するべく、学生コミュニティを大学の先輩と立ち上げたりもした。実際にそのコミュニティを通して、留学先の情報を先輩から教えてもらう事ができる場を提供できたり、ロンドンで20人ほどのミートアップを開催し人脈を広げることができたりと、微力ながら役に立てたと思う。

挑戦と挫折を通して学んだこと

このように僕はいろんなことに手を出し、その中で挫折も味わってきた。何をやっても自分はまだまだ未熟であると感じることばかりだ。しかし、未熟だからこそ成長が必要であり、挑戦を続けながらも、同時に謙虚であり続けることで、その成長の質と速さが増すのだと信じている。今までの多くの挑戦を通して、後悔はしたことないが、反省すること、学ぶことはたくさんある。

一つ目は、何事も始めたら中途半端に終えないことだ。何事も挑戦することは大事だが、ある程度(これは人の匙加減によって変わるが)のところまで物事を極めないと学べることも学べなくなってしまう。高校時代の受験もサッカーも、大学入学後のYouTubeもコミュニティーも、その時できることは精一杯したが、未熟であったために、それらの経験から学べることは似通っていたと感じる。中途半端に物事を終えないこと、自分が胸を張ってやり切ったと言えるくらいまで極めることが足りていなかった。この点がまだまだ未熟であり、反省すべきところだ。

二つ目は、己を修めることをやめないことである。言い換えると、謙虚であり続け、自分の成長を止めないことだ。これは以前、記事で書いた陽明学における「修己治人」の’修己’の部分にあたる。

すなわち、自分を成長させ続けることが何事をする(陽明学では人を治める事だが)にも優先であるべきだということだ。何歳になっても修己の気持ちを忘れずに生きていきたい。どんな状況、どんな人であれ必ずそこには学べることがある。儒学では、人と接しているときも自分の言動を俯瞰し、感情を分析することで、いかなる時でも自分を修める事ができるという考え方がある。これを意識し続けるには、「謙虚さ」が大事だと強く感じる。

これから、あらゆる挑戦を通して、自惚れてしまうような成功を治める事ができるかもしれない。そんな時こそ謙虚さを忘れずに海のように広く静かな心を持ち合わせることのできる人であり続けたい。

現状確認と中長期的な展望

ここまで過去を振り返ってきたが、現在の状況を再度確認して、さらに中長期的に自分が今どんなことを描いているのか共有しておこうと思う。読者の皆さんと共有することで弱い自分に縛りをかける事ができるからだ。もし、堕落している自分を見かけたら、ぜひ注意していただきたい。

現在やっていること

  • ニューカッスル大学2年生終盤(3年制)

  • 上記某企業でのインターンシップ(東南アジアでの貧困削減を目的とする)

  • 日本における子供の貧困課題解決のための活動準備

直近3年間のプラン

  • 来年度(2024/6-2025/8)は休学して:

    • 日本で子供の貧困解決のために自分にできる最大の事をする

    • 東南アジアに1ヶ月以上滞在し、貧困の現状を知る

  • アイアンマンレース(Swim: 3.8km+Bike: 180km +Run: 42.195kmのトライアスロン)を完走する

  • 長期的な展望の実現に基づいた自分の力を最大限に発揮できるキャリアを探し、始める

長期的な展望

  • 自分ができる最大の力で社会問題(環境や機会の不平等から来る貧困)の解決に貢献する(起業が最大のインパクトを残せると今は感じている)

締め

自分の21年間を振り返り、今考えている将来の展望を書き出してみた。長期的になるほど抽象的になるのは、自分にできることは何か、すべきことは何か、がまだ定まっていないからだと感じる。これは、これからのキャリアや様々な挑戦を通して詰めていくべきことである。そのためには、常に自分が信じたことを行動に移し、できるところまでやり抜き、更なる成長をしていかなければならない。道のりはまだまだ長く感じるが、千里の道も一歩から、玄奘(三蔵法師)が17年間歩き続けて長い道のりを達成したように、一歩ずつ歩みを進めていけば必ずゴールに辿り着くと信じている。

では、また次の記事で。

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