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言葉と裏側

※先日一瞬公開したのですが、
下書きに戻したものを再投稿します。

一見、褒めているように聴こえるんだけど、
よくよく聴いてみるとディスっていたり、

前向きなことを話しているようで、
実は愚痴だったり、

人間の言葉って、時々複雑になるな、と思う。
(私自身も)

シンプルに言葉と心が一致している時は良いけれど、

1人1人の言葉の意味の認識や、善悪の基準、
今いる環境や育ってきた環境も違うため、
発した言葉の裏にある意味合いが、
聴いている人の認識とズレることがある。

話している時は、流れやノリで多少の違和感は流してしまうけれど、

時間が経って、違和感の正体をよくよく考えてみると、言葉に裏の意図があったことに気づいたりする。

人間は、大なり小なり皆利己的で、
自分自身が一番可愛いものだから、

無意識に自分を養護しようとしたり、
正当化しようとして、
他人や状況を悪者に仕立て上げることがある。

本当に自分には全く落ち度がなくて、
全部が環境や周りのせいであるということなんて、
ほとんどないと思う。

良い悪いでなく、
自分の不満を解消しようとしたら、
誰かと衝突は避けられないだろし、

衝突したら、相手からは良く思われないだろう。

そういう場合の発した言葉で起こった出来事は、
自分で引き受けなければいけない。

だからといって、
ずっと自分だけが我慢して、
病気になったり、
表だって言えない不満を周りに陰口として吹き回ったり、裏で姑息なことをして陥れようとすることが良いこととも思えない。
(我慢というのは、いつか必ずどこかで吹き出す)

何でもかんでも言えば良いってものじゃないし、
かといって全て我慢するのが良い訳でもない。

どうしようもない時は、祈って、
解決方法を宇宙に託してしまうのも
1つの手段かもしれない。

トラブルの解決は、
そのトラブルと同じ波動にはないと言う。

誰かを恨んだり、周りのせいにしているうちは
解決しないことも多い。

心をなるべく軽くしておくと、
気がついたら望みが叶っていたり、
状況が改善しているということは多い。
(そのために誰かに愚痴を聴いてもらうこと、
聴いてあげることは、役に立つ。)

全てを努力と根性で自分の思う通りにコントロールできると思うことは傲慢だ。

かと言って、悩みの真っ只中にいる人にそんなことを言っても、逆ギレされるのが関の山なので、

見えないところでその人の幸せを願ったり、
状況の改善を願っていたら、

(ギュッと苦しくなるような願い方ではなくて、
自分にとっても相手にとっても最善になるように軽く温かい気持ちで願うのがポイントな気がする)

気がついたら、相手と離れることが出来たり、
相手が心を入れ替えたりすることはよくある。

相手と自分の考え方の些細な違いをイチイチ是正しようとせずに、

「この人はそういう考え方なんだね、
私は違うけど」

と、心の中で距離をとって、
放っておく。

変えようとしない、
論破しようとしない。

最善を尽くしたらあとは流れに任せる。

仲良しだったり、恩があったりすると、
相手の言動に違和感や、裏を感じた時、

「いやいや、そんなはずない。
良い人なんだから、もっと深い理由があるはずだ。」

等と相手を美化しがちだけど、
自分が聖人君子でないように、
欠点や間違いや裏のない人間はいない。

欠点や間違いや裏を責め立て追い詰める必要はないけれど、何でもかんでも自分が受け入れてあげる必要もない。

自分の心の問題は自分で解決する必要があるように、その人問題もその人が解決する必要がある。

言葉の裏にあるエゴは、
本人よりも周りの人の方が気がつきやすい。

その裏には、
自分らしくいられないジレンマや、
自分を自分で受け入れられない恐怖心がある。

良い人でいる必要ないし、
あの人は良い人のハズだ、も必要ない。
(自分が良い人である必要がないように、
他人だって良い人でいなければならない必要はない。)

その時その時で、
移り行く人間の心と環境があるだけだ。

人生と言う旅の途中で、誰かと巡り会ったら
その時、同じ時間を一時共有するだけ。








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