抗えないことって運ですか
地下鉄サリン事件から29年の今日、あの日のことを思い出している。
その日両親は東京にいた。兄夫婦の家に泊まりながら東京見物の滞在中。
私は当時手書きが主流だった機械製品のトレースの仕事をしていた。いつもご当地ラジオがかかっていて聞くともなく聞いている。のどかな職場だった。ラジオがそのニュースを伝えた。何が起こっているのだろう。あれ?今日は何処へ出かけているのだろう。お芝居とか言ってたっけ?
ただ不安だけが増幅していって、携帯電話など無かった頃だ。自宅の電話は出ない。結局無事な声を確認したのはその夜のことだった。
多分心配していたことなど思うまい。そのニュースさえ知らないで歩いていたかもしれない。
だから思う。最後まで連絡がつかなかった事件に巻き込まれた方々はどんな不安な時間を過ごされただろうかと。
どの災害も同じだ。不安に負けそうな中で祈りながら時間を過ごす。どっちに結果が転んでも共有することになる時間。
いくつもの不運な出来事が身近な思い出と共に残っている。
それは自分が運がよかったという裏返しで、明日何が起こるか分からないという考えに至るには充分な出来事だ。
今日は雨に雪が混じるようなとても寒い春分の日になっている。
もうすぐ桜が咲くというのに。
その博覧会を訪れた花咲く季節、翌日に脱線事故が起きた。
その山にロープウェイで上った晴れた日、数日後に噴火が起こった。
ドライブウェイをバスで上がったパーキングに、数日後熊が襲った。
車を止めたかもしれないその場所に、数日後大きな落石があった。
一か月間旅を共にした仲間が一人あの飛行機事故で命を落とした。
ハイウェイでバスのフロントガラスに頭をぶつけた自分はちゃんと生きている。あの時運命が変わったかもしれない僅か一秒の自分の左手の動きをスローモーションのように覚えている。
自分は運がいい。今日までは。
そしてこのまま運がいいと思って生きてしまうだろう。その日までは。
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