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マヨネーズのように哀しい

まさに別役節だ、と思う。
マヨネーズのように哀しい。
そんな言葉思いつかない。
マヨネーズって哀しかったのか、そうか。
冷蔵庫に傾くマヨネーズを
まじまじと見てしまう朝だ。

ただ、僕達は、いろんな事をしようとしてはいけないんですよ。/皆に憎まれるか、殺されるか、いじめられることしか出来ないんです。/愛されようと思っちゃいけないんですよ。/ね、いいですね。/殺されたり、憎まれたり、いじめられたりしない時は、ただ、じっと待っているんです。/それしか出来ないんですよ。

別役実「象」より

別役実が一番好きだった戯曲は
サミュエル・ベケットの
「ゴドーを待ちながら」だったという。
内戦下のレバノンやシリアでも
数多く上演された作品だ。
エスドラゴンとヴラジーミルというふたりの男。
交わされる意味のわからない会話。
ただふたりが「ゴドー」を待っている
という事実だけがある舞台。

待っている。
それは「不条理劇」において
非常に重要な要素のように思う。
そして、第三の視点。
主観でも客観でもない。
「俯瞰」とでも言うのだろうか。
遥か遠くからのまなざし。

別役実にはそういうやさしさがある。
だからきっと、マヨネーズを見て
ああ、哀しいなと思う日があるのだろう。

エスドラゴンとヴラジーミルは
ゴドーを待っている。
彼はやって来るのか、来ないのか。
生きているのか、死んでいるのか。
存在しているのか、いないのか。

平和をもたらすものなのか
そこにもやはり希望はないのか。

ゴドーはあらわれない。
だから、答えはないのだ。

観客は気づかされる。
答えが救いではないのだということに。

「待っている」そのことによって
すでにエスドラゴンとヴラジーミルは
救われている。
「ゴドーを待つという行為」が
彼らを赦し、解放する。

実に演劇的だ。
これが演劇というものの正体であろうと思う。

マヨネーズのように哀しい世界で
わたしたちは
わちしたちのゴドーをずっと待っている。

叶わないから哀しいのではなく
叶わないこともまた
行為の目的の中に含まれている。

わたしたちは、宇宙のマヨネーズの中で
胎児のように未来を思い出している。

待つことは美しい。
たゆたうことは、希望だ。
そんな風に呟きながら…

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