※少し宗教感の強い内容になります。(私自身が何かを信仰している、という話ではありません。) この世界は、遥かに大きな力のもとに動いているのではないか とよく思う。(いつも書いている気がする。笑) 世の中には、あらゆる国や民族に 様々な宗教や信仰が存在する。 それぞれの宗教が神、それに近いものを持っている。 遠い異国の人同士の交流がなかった時代から 世界中のあらゆる土地で、そこにいる人たちはそれぞれにそのような存在を信じていたのだ。 この世界はいろんなものが本当によくでき
多様性が叫ばれる世の中であれど、やはり恋愛や結婚はして然るべき、という感覚はうっすら共通概念なのだろう。 ふと思う。恋愛や結婚がない人生は何の祝福もないのだろうか。 それらの有無よりも、自分は後ろめたい存在なのかもしれない、という感覚を味わうことのない人生を送りたかった、と思う。
私は虚無主義だ。 社会人になりたての頃 「首相が突然辞任しても何とか国は回っているのだから、私1人が会社を辞めたところで何の問題もないし、それは私に限らず誰でもそうだ。心も体もボロボロになってその後の人生を壊されるくらいなら、さっさと逃げよう。」 と人知れず心に誓った。 あなたがいなくても世の中には何の影響もないし、何のダメージもない、なんて聞かされたら 普通は悲観的にとるものなのかもしれないが 私はそうはならない。 むしろ気楽である。好きなように生きていい、と言われてい
ここ最近、なんだか日々の生活やものを考えることにさえもとても疲れてしまって、文章を書くことが全然できなかった。今まで楽しいと思ってたことを楽しいと思わなくなったり。生きていると自分でもよくわからない変化が起きるものなんだなあ。そんな自分についていくのが精一杯になってしまう。
亡くなった誰かに手向けるものを 「花」にした最初の人の その優しさとセンスが温かいなぁ、と思う。
私は女性として生まれ、女性として生きている。 特に心と身体の性別の不一致も感じたことはない。 だが、自分が女性だということを 強く感じる場面がとても苦手だ。 女性としての自信が全然ないからだ。 女性らしい体型じゃないし、 性格も俗にいう女性らしさとはかけ離れている。 スカートよりもパンツの方がしっくりくる。 女性としての意見を聞きたい、などと言われると 責任が妙に重くて逃げ出したくなる。 “女性としての意見”ではなく“私の意見”なら 言えるが。 特に周りとの圧倒的な
時代の変化で起きる問題を、そもそも問題だと感じるのは 社会というものが変わらないものだと心のどこかで思ってるからなんじゃないか。 人も街も社会も、何もかも同じ瞬間はなくて、絶えず変わり続けるもの。 問題としてではなく、現実としてどう向き合うかに焦点を当てたい。
*ややデリケートな話題なので最初に断りを入れておくと、ここで言うのは「死」そのもので、それに至る過程やその背景の話ではない。 人の数だけ「死」があるので、あくまでそのものに焦点を当てた、一個人的な思考だ。 あと、長い文章になってしまった。 退屈しのぎにでもなればよいのだが…。* 死ぬことをなぜ人は古来から恐れるのだろう。 なぜ「死」を避けようとするのだろう。 「死」そのものも、それに関することでさえ。 なぜ忌み嫌うのだろう。 生き物としての本能としては納得だが 「ヒト」では
人類の誕生から、滅亡までの過程の中で 今この時代はどのくらいの段階なのだろう。 人類というひとつの生き物の寿命でいうと 今何歳なんだろう。 人が一生のうちに少しずつ変わっていくように、 人類そのものの常識や共通認識も変わっていく。 人類全体が学び、成長し、時に失敗し、また成長して少しずつ磨かれていく。 歴史を見ると、そんな気がする。 同じことを何度も繰り返したりして変わらないところもあるけれど、 それでも変わっていくものもある。 今生きている世界の常識がベースになって
人間という生き物は この上なく素晴らしい音楽や絵画、文学、ありとあらゆる芸術を生み出せるのに どうして、それと同時に あまりにも残酷で理不尽で凄惨なことを平気で出来る一面を持っているのだろう。 人間という生き物は 友人との別れに涙したり、あるいはその幸せを祝福したりできる心を持つのに どうして、それと同時に 身近な人を罵ったり、いじめたり、容赦ない仕打ちをしたりできるのだろう。 信じなければ、その相手を傷つけてしまう。 信じれば、自分が傷ついてしまう。 どうしていつもその
それなりにいろんなものに恵まれて それなりに満たされて 何か大きな問題があるわけでもない。 なのに時々強烈な虚しさや、 生きることへの苦しさが襲ってくる。 何を求めてるのか自分でもわからない。自分には何かが欠けているという感覚がそうさせるのか。どうしたらその感覚を緩和できるのか。
買い物に行くと、その季節の食材が並んでいる。 その時その時にしか食べられない果物を食べて、四季を感じるのが私のちょっとした楽しみだ。 最近だと、でっぷりと重そうなツヤツヤのイチゴが眩しい。 (冬から売っているので、もはやいつが旬なのか定まらないが春の食べ物だと思っている。) 食べ物は、旬の時期だと一番その栄養価が高いらしい。自然の力ってすごい。 それぞれの食材が一番輝く時期を持っている。 イチゴを手に取りながら、人もそうなのかなぁ、と思った。 みんなそれぞれに個性があって
人知れず毎日懸命に生きている人。 人知れず泣いている人。 人知れず何かを我慢してる人。 目立たないところで頑張る人に 幸せが来ますように。 温かい光が差し込みますように。
「瑠璃色の地球」の歌詞の中にある “泣き顔が微笑みに変わる瞬間の涙を世界中の人たちにそっと分けてあげたい” というフレーズがすごく好き。 なんて優しい言葉だろう。
凡人なので、特にそれがどうってことはないのだけど、自分の中で 「あ!これは名案だ!」とか 「こういう考え方をすればいいんじゃないか!」とか何か思いついたり、着想を得たりするのは いつもお風呂に入っている時だ。 クリエイターの人ならそれをインスピレーションとでも言うんだろうか。 頑張って何か閃かないか悶々としている時は たいてい何も思い浮かばない。 メモも何も持ってない、脱力し無意識に体を動かしている時の方がなんだか頭が活発だ。 ただし残念なことにせっかく思いついたことを お
めんどくさい っていう言葉はマイナスなイメージがあるけれど 必ずしもそうじゃないと思う。 今世の中に溢れてるハイテク機器、 便利グッズ、いろんなシステム。 「めんどくさい」を除去するために 生み出されたものはたくさんあると思う。 人間としてちゃんとしないといけないこと、 投げ出してはいけない努力、 そういうものをめんどくさがってはいけないけれど 無駄としか思えない効率の悪いシステムや この過程さえなければもっと生活の質が向上するのに、というようなものは 積極的に省く努力