見出し画像

7.登山靴のひもを締める

「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」

第1話「彼方の記憶」

【今回の登場人物】
  立山麻里 白駒池居宅の管理者
  徳沢明香 白駒池居宅のケアマネジャー 薬師太郎の担当
  薬師太郎 元旅行会社の社長 デイサービスを拒否
  薬師通子 太郎の妻 太郎の認知症による行動に疲労している
  
7.登山靴のひもを締める

 数日後、薬師通子から白駒池居宅に電話が入った。
 担当の徳沢明香が不在だったため、立山麻里が話を聴いた。
 主訴は前回と同じだが、夫がずっと付きまとうのでストレスが極限まで来ていると、さらに強い訴えになっていた。
 そして何とかデイサービスかショートステイを利用できないかという嘆願だった。
 「わかりました。何かいい方法がないか考えてみます。」と答えたものの、麻里はどうしたものかと考え込んでしまった。
 あれから徳沢ケアマネジャーが動いた気配はなく、自分自身も他の利用者との関わりの中で、「動いていないケース」として放置されていたところもあった。
 包括支援センターの滝谷七海にも相談しようと思っていながら、麻里には徳沢明香をどのように指導していけばいいかという悩みの方が強かったが、日頃の忙しさで、その課題から逃げていたところがあった。

 しかしそんな立山たちの動きの悪い日々の間も、薬師太郎と妻通子は不安と混乱の中で闘っていた。
 その日の夕方、調味料を切らしていることに気が付いた通子は、少しの間なら大丈夫だろうと、太郎にちょっとだけ留守番をしておいてほしいと声を掛け、近所のスーパーに出掛けた。
 その通子の言葉は太郎の頭からすぐに消えた。
 太郎がふと気が付くと、通子がいなかった。
 太郎は家の中で通子を探した。
 「おい通子、どこにいるんだ?」
 太郎の心を不安という悪魔が襲った。
 通子の「スーパーに行ってくるから留守番お願い」との声掛けの言葉は、太郎には存在しない言葉になっていた。そもそもその言葉を理解し覚えることが太郎には厳しい状況にあったのだ。
 太郎は自分が安心して生きていくための頼みの綱である通子の姿だけを追い求めた。
 その太郎に、かすかな残像のように、通子が玄関から出ていく姿が脳裏に残っていた。それは今回の残像というより、幾度か出掛けていく通子の後姿を見送った、薄く重なった残像だったのかもしれない。
 「まったく、通子の奴、どこへ行ったんだ? 」
 通子がいないと太郎はたちどころに不安の悪魔に支配される。
 そして太郎は頭の中の残像を追って、外に出ようとした。
 太郎は目の前のスニーカーではなく、靴箱から登山靴を取り出し、靴紐をしっかりと締めた。
 仕事の時も山へ行くときも、靴紐をしっかりと締めるのが習性だったのだ。
「よし! 」
 太郎は自分に声を掛けると、立ち上がり、玄関の扉を開けた。

かつて私が履いていたドタ靴と言われていた超重たい山靴です

 通子は、少しくらいなら問題はないと思いつつ、やはり一人にして出るのではなかったのではないかという自分を責めるような不安感が頭の中で錯綜した。
 そんな複雑な思いに囚われながら、通子は速やかに買い物を終え、急ぎ足で家に戻った。
 通子が帰ってきたとき、閉めて出たはずの玄関の鍵が開いていた。スニーカーはあったが、靴箱の扉が少し開いていた。通子がのぞくと、太郎の登山靴がなかった。
 通子の体にぞくっとする悪寒が走った。
 太郎が外に出て行ったに違いないと通子は思ったが、念のため家の中を確認し、太郎がいないのを確かめると、すぐに外に出た。
 「ああどうしよ! あ~…! 」
 通子は自分自身を責めると同時に、言い知れぬ腹立たしさの中でパニックになりかけていた。
 「まだ近くにいるかも。でもお父さん、足が速いし… 」
 通子は呟くと、太郎を探し始めた。
 しかし山で鍛えた太郎の足は速かった。
 通子は太郎を見つけることが出来なかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?