【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#001

#001 新宿通りはもう秋なのさ

 一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。時給四二〇円のアルバイト待遇である。大学を卒業して約半年後のことだった。あの頃のことを思い出そうとすると、今でも耳元で清志郎の声が聞こえる気がする。
 一九八二年と言えば、RCサクセションはシングル「サマーツアー」がヒット。メディアでは日本のロックバンドのシンボル的存在として取り上げられ、まさに快進撃を続けていた。フジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演した際は、生放送で清志郎がカメラに向かって噛んでいてガムを吐き捨て大人たちのひんしゅくを買ったものの、ロック少年・ロック少女からは「ロックのカリスマ」と呼ばれるようになっていた。
 でも僕はその頃、エレクトリック編成になりブレイクのきかっかけになった一九八〇年、久保講堂でのライヴ盤『RHAPSODY(ラプソディー)』や、続いてリリースされたシングル「トランジスタ・ラジオ」の入った『PLEASE(プリーズ)』(一九八〇年)はほとんど聴かず、アコースティック時代、「全然売れなかった」と後に清志郎自身も語っている『楽しい夕に』(一九七二年)や、所属事務所を干されレコードは話題すらならず「暗黒時代」と呼ばれた頃のアルバム、『シングル・マン』(一九七六年)ばかり繰り返し聴いていた。
「あの娘の悪い噂」「九月になったのに」「もっとおちついて」「去年の今頃」「夜の散歩をしないかね」「ヒッピーに捧ぐ」「冷たくした訳は」「甲州街道はもう秋なのさ」──、
 僕は二三歳で、もうすぐ二四になろうとしていた。

 その会社は麹町にあった。新宿通りの「食糧会館」とクッキーの「泉屋」本店の間、路地を入った雑居ビルの三階と四階である。当時学生援護会が発行していた求人誌『日刊アルバイトニュース』を見てその会社に電話をかけたとき、東京近郊に住みながら「麹町」というのがどこにあるのか知らなかった。路線図で調べ、二度行われた面接には有楽町線の麹町駅で降りた。しかし九月に採用になって実際に通い始めると、四谷から歩ける距離だとわかった。
 当時暮らしていた実家は川崎の小田急線新百合ヶ丘駅近く。代々木上原で千代田線に乗り換え、表参道で半蔵門線、永田町から今度は有楽町線と乗り継ぐよりも、新宿まで小田急一本で出て地下鉄の丸の内線に乗り換え、四ツ谷で降りる方が圧倒的に早い。そこで会社までの約十五分の道のりを毎朝歩いた。
 歩きながらRCを聴いた。初めてもらった給料で買ったレコーディング・ウォークマンで、だ。ヨドバシカメラで三万五千円だった。嬉しくて嬉しくてそのまま帰る気になれず、学生時代からよく通っていた西新宿甲州街道沿いの「ハイチコーヒー」に入り、珈琲を飲みながら買ったばかりレコーディング・ウォークマンを、箱から出してずっと眺めていた。十月に入り、街はすっかり秋になっていた。
「なんでまたわざわざ録音できるウォークマンにしたんだよ、普通のヤツよりもずいぶん高いんだろ」
 と五十崎が訊いた。たぶんその翌週くらい、バイト仲間のスズキくんと三人で遅い昼飯を食った後、会社に戻る途中でのことだ。そう、再生のみのウォークマンは二万円ちょっと。一万五千円近く高かった。
「だって将来、インタビューとかの仕事をするかもしれないだろ」と答えると、ヤツは「君は本気で編集者になろうとしてるんだな」と呆れたように笑った。
 五十崎の言いたいことはわかっていた。あの会社にいて、本気でそんなことを思ってるのか? という意味だ。僕と五十崎より二つ年下で温厚な性格のスズキくんは、困ったような顔で曖昧に笑っていた。

 社会人になって初めて入った会社は奇妙な場所だった。少なくとも僕にはそう思えた。
 そこは当時業界最大手のアダルト系雑誌の出版社だったが、社員のほとんどがエロ本を作るということに誇りを持っていないように見えた。元々は週刊誌の編集部にいた者、業界誌にいた者、中には一流文芸誌にいて「野坂昭如の原稿を取った」と自慢話をする男もいた。
 そこからどんな経緯があったのかは知らないが、彼らはその場所にいた。だから誰もが「本当はこんな低俗な仕事はしたくないんだけどな」というような顔をしていた。「別に本気でやってないぜ」というポーズを取っていた。そのせいか大学を出てすぐにエロ本の編集をしたいと会社に入ってくる、僕らのような連中を到底理解できないようだった。
「要するにお前はいい加減な生き方をしたいわけだ」
 直属の上司だった、電球に海苔を貼り付けたような頭の男は僕に対しあからさまにそう言った。
「俺がお前くらい若かったら、一流の出版社目指して就職活動するがね」と。
 そんな社員連中が、唯一熱中するのがギャンブルだった。麻雀と競馬である。八〇年代前半の会社は、大抵土曜日も出勤だった。すると正午を過ぎると社内中に競馬中継のファンファーレが鳴り響くのだ。そして社員のほとんど全員が、競馬新聞片手にノミ屋に電話をかけ始めるのである。昔も今も当然、ノミ行為は違法だ。けれど社内で咎める者は誰もいない。何しろ社長が勢い込んで電話をかけ馬券を買うのだ。
 他に「ペーパー馬主ゲーム」というものがあった。実在の競走馬を社内で仮想馬主として所有し、レースの成績によって得られた賞金などをポイントに置き換えて競うゲームである。もちろん麻雀などと同様、実際に金を賭けてやりとりをする。競馬は土日に行われるので、月曜の朝には「昨日はキミの馬にやられちゃったよ」などという会話が飛び交う。金の精算は給料日に行っているようだった。

 三つ離れた席を見ると、スズキくんがいつものように背筋をピンと伸ばした律義な格好で座っていた。他の部署の編集者がやってきてスズキくんの上司に「なあ、スズキ、今空いてるか?」と聞き、上司は「おお、空いてるよ。使っていいよ」と言った。
 スズキくんが配属されていたのは劇画誌だった。劇画誌には写真のポジ切りや文字校正など、編集アシスタントがやる仕事がほとんどないため、彼の仕事は原稿取りやお使いだった。だから彼はいつも背筋をピンと伸ばした律義な姿勢で椅子に腰かけ、誰かに「スズキ、どこどこまで原稿取りに行ってくれるか」と声をかけられると、「ハイ」とやはり律義な感じで返事をして出ていくのだ。
「空いてるとか使うってのは、人間に使う言葉じゃねえだろ」
 隣でライトボックスを覗き込んでポジ切りをしていた五十崎が吐き捨てるように言った。
「ボクはアニメーションが好きでさ」といつかスズキくんは言っていた。「そういう雑誌に関りたいって思ったんだけど、経験がないとなかなかむずかしいんだよね。だからこの会社で編集を少しでも学べればって思ったんだけど、ココじゃ無理みたいだね」
 僕は五十崎の隣の席で、写植の校正をしていた。文字の打ち間違いを探し、その部分をカッターでキレイに切り取り、古い版下から文字を拾って貼り付けるのだ。内容はよくある事件ストーリー物だった。女子大生やOLが夜道でレイプされるという話である。
 鬱屈した肉体労働者や学歴のない工員などが、夜道で育ちのいい女性を襲って犯す。展開は毎回ほぼ同じで、何度か原稿取りで会ったその中年ライターの文章には、必ず「へっへっへっ、口では嫌だと言いながら、ココはもうグッチョリじゃねえか」という台詞が入っていてゲンナリした。むなしい仕事だった。

 ヘルメットを抱えた国城健二がオートバイ用のブーツをガチャガチャ鳴らして入って来て、僕と五十崎の席の後にあるホワイトボードの「国城 撮影」と書かれた文字を消しながら「チクショー、まったく面白くねー」と言った。
「何ブツブツ言ってんだよ」五十崎が訊く。
「ひとりモデルでノリの悪りぃ女がいてさ、現場着いても脱ぐなんて聞いてないとか最後までブツクサうるさかったんだよ」
 国城はスズキくんよりひとつ年下で二〇歳になったばかりだが、バイト仲間では最古参だった。昨日から泊まりがけの撮影に出かけていた。地方のペンションを借りた乱交モノの撮影である。上司のアサハラが放任主義だったせいで、国城だけがバイト仲間の中では唯一まともな仕事を与えられていた。加えて国城は特別手当て欲しさに裸になってモデルと絡む相手役もやったので、重宝されてもいたのだ。長髪で売れないアイドル歌手みたいな風貌の国城は、写真に写ってもけっこうサマになってはいた。
 車で戻ってきたらしいアサハラがいつものように両切りピースの缶を抱えて入って来て、「クニ、撮影の小道具片づけておけよ」と言った。それから不意にこちらを見て、「そうだ、ユーリ」と僕を呼んだ。そして「コレやるから使えよ。俺ンとこはもう必要ないから」とビニールの下敷き状のものを差し出した。アサハラは当時三〇代半ば。優しい面倒見のいい男で、この会社では珍しく僕らバイトに気を配り、仕事終わりで飲みに連れて行ってくれたりもした。
 アサハラがくれたのは活版のスケール表だった。八〇年代、アダルト誌はヌードグラビアが中心となり、印刷はオフセットが主流。文字もいわゆる写植、写真植字が使われていた。ただ、僕の配属された雑誌は電球頭の上司が四〇代後半の中年男だったため、活版ページが半分以上使われる「実話誌」と呼ばれるものだった。昭和四〇年代に生まれた、古いスタイルのエロ本である。「実話」と銘打たれているが、書かれていることは全部嘘だ。先に書いた事件ストーリーや人妻の告白手記などだが、すべてライターがでっち上げた記事である。
 写植は文字の大きさが級数と呼ばれ、一方の活字はポイントだ。これが微妙に違う。入社以来、活版ページも写植のスケール表で計っていたので、「どうして合わないのだろう?」とずっと頭を悩ませていた。アサハラがくれたスケールで活版ページを計ってみると、文字間と行間がピッタリとポイント数通りに合致した。僕は、そんな基本的なことすら知らなかった。
 この会社の社員たちは、アサハラのような一部の人間を除いて、アルバイトに仕事を教えるということを一切しなかった。そのときどきで「あれをやれ」「これをやれ」「あそこにに行け」と命じるだけだ。彼らにとって僕たちは、ただ時間給欲しさにやって来る単なる労働力だった。

 いつもRCを聴いていた。「ヒッピーに捧ぐ」「冷たくした訳は」「甲州街道はもう秋なのさ」、そして「スローバラード」。実家のステレオでカセットに録音して、イヤホンを付けレコーディング・ウォークマンで聴いた。麹町にあったその会社まで、毎朝、丸の内線の四ツ谷駅から歩いて通った。聴きながら歩きたかったからだ。
 やがて四谷三丁目で降りて歩くようになり、それが新宿御苑になり新宿三丁目になり、遂には丸の内線には乗らず、新宿駅まで小田急線で来ると、そこから麹町まで歩くようになった。約五〇分かかった。出来るだけ長く、清志郎の唄うロックンロールに浸っていたかった。
「わかってもらえるさ」という曲があった。『シングル・マン』が発売されてもまったく売れず、その約半年後に、レコード会社のどういう意図があったのかはわからないが、不意にポツンとシングル盤でリリースされた。僕はそんな曲があったことすら知らず、大学に入った頃、友だちの友だちにRCの不遇時代も変わらずファンで、渋谷の「ジャンジャン」など、ほとんど客の入らなかった頃のライヴハウスにも通い詰めていたという女の子に頼み込んで、レコードを貸してもらった。
 ジャケットにはメンバーの写真すらなく、清志郎が大学ノートに殴り書きしたような文字で、A面の「わかってもらえるさ」とB面「よごれた顔でこんにちは」と書かれただけだった。後から知ったのだけど、この時点でリードギターの破廉ケンチは既に脱退していて、RCは清志郎と林小和生の二人きりになっていたそうだ。つまり、グルーブの存続すら危ぶまれていたのだ。
 そんな中でも清志郎は、いつかきっとこの歌のよさが君にもわかってもらえる、そんな日が来ると唄っていた。僕がRCサクセションを知ったのは中学二年のときだ。僕の住んでいた川崎とその他一部の地域にしか放送されたなかった、神奈川テレビの『ヤングインパルス』という歌番組に彼らは出ていた。長髪にハチマキを締めた、あの頃と同じ切なくもいかした声で、清志郎は「わかってもらえるさ」と唄っていた。

 編集者になりたかった。自分で雑誌を作りたかった。でもどうしたらなれるのか、どうしたら作れるのか、その方法がさっぱりわからなかった。
 四ツ谷駅の改札を出て上智大学を過ぎると、右手に山王書房という書店があった。会社は十時出勤だったから、九時半に開店するその書店に立ち寄り、十分くらい覗くのが毎朝の楽しみだった。入って右手に新刊の平積みがあり、その奥に早川書房のコーナーがあった。ロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズが菊池光の訳で次々と発刊されている頃で、後に最高傑作と呼ばれる『初秋』が出たばかりだった。
 だけど第一作の『ゴッドウルフの行方』はずっとポケットミステリ版が品切れのままで、二作目の『誘拐』も菊池光訳はまだ出ていなくて、立風書房版だけがあった。僕のカバンの中にはもう少しで読み終わるジェイムズ・クライムリーの『さらば甘きくちづけ』と、やはり山王書房で買った『編集ハンドブック』がある。次の給料が出たら『初秋』と、また編集の勉強になる本を買おうと思った。

 山王書房の左側の入口にはひっそりとエロ本系の雑誌を並べたスタンドがあって、その朝僕は不思議な雑誌を見つけた。A4版のグラビア誌でタイトルは『ビリー(Billy)』。表紙はごく普通の女の子のポートレートだが、その眼差しはどこか手に取る者を威嚇しているように見えた。欧文でレタリングされた〈Billy〉というロゴタイプも、スタイリッシュではあるが同時に尖ったナイフのようなイメージだ。
 しかしその半面、タイトルの上には少しマヌケな感じの書体で「スーパー変態マガジン」と銘打ってある。内容はもっと異様だった。スカトロ、つまり排泄行為に興じる外国人女性や、ハードゲイと呼ばれるマッチョな男同士のセックスに関する海外記事の紹介に、死体や奇形胎児といった悪趣味な写真があったかと思うと、唐突に芸能人や文化人へのインタビューが入っていた。そして何よりそれらが実に斬新で洗練されたデザインの元、あっけらかんと並列に並んでいるのが刺激的だった。
 ひっくり返して奥付を見てみると、発行は「白夜書房」とある。
 ああ、『写真時代』と同じだ──、と思った。

『写真時代』は一九八一年に創刊された、革命的な写真雑誌だった。編集長は末井昭。アラーキーこと荒木経惟をメインに、森山大道、倉田精二、北島敬三といった写真家が作品を載せた。写真雑誌と言っても、従来の『アサヒカメラ』(朝日新聞出版)や『カメラ毎日』(毎日新聞社)などとは根本的に違っていた。
 荒木の撮る過激なヌード写真が象徴するように、すべてが下世話で猥褻でエキセントリックだった。『写真時代』には、それまで誰も見たことのない写真が掲載されていた。写真というものの概念を変えた、まさに新しい「写真の時代」を切り開いたメディアだった。
 執筆陣も独特だった。赤瀬川原平、上杉清文、木村恒久、栗本慎一郎、糸井重里、上野昂志、南伸坊、渡辺和博、高杉弾、誰もが、他の媒体では書かない、あるいは書けない文章を寄せていた。
 その朝見つけた『ビリー』にも、同じ匂いがあった。いつかこんな雑誌を作ってみたい、編集してみたい。そう思った。
 でも──、清志郎は「いつかそんな日が来る」と唄っていたけど、僕にはそんな「いつか」なんて、どんなに待っても来ないような気がしていたんだ。

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