ディストピア1-9[1章完結]

そういえば、言ってなかったことがある。
我々の体育の教師は田上といい、元プロボクサーである。本人の語るところによると、以前はタイで名のあるボクサーだったらしい。今となっては体に脂肪がついてしまい肌にも皺が増えてきている。彼は見た目こそは特徴的でないものの、激怒したときのしゃべり方はそこそこ特徴的であり、なかなかに面白かった。普段から声が高いため、怒った時はその高い声が裏返るのである。そして、それはたびたび、生徒たちの嘲笑の対象となっていた。

私のクラスには末広という男がいた。彼は癖のある人間でクラスの中でも唯一、教師に反抗的な態度を取る人間であった。特に担任の石川と体育教師の田上には反抗的な態度をとっていた。以前、彼は石川に説教を受けているときに舌打ちをした。その日はさすがの石川も呆れ、末広に対して怒る気力を失ってしまっていた。
夏休みがおわり、学校生活がもどってきた。私は自分のクラスに慣れてきたので、昼休みになると隣のクラスである四組や六組を訪問していた。中食の時間になると担任教師も生徒共に食事を取っていた。おそらく、精神年齢の低い生徒を見守るためであろう。私のクラスでは石川、四組では服崎、そして六組では田上が生徒と共に昼食をとっていた。
ある日、私はいつものように昼食時間に六組を訪問した。六組は他人教師との関係性がよかったので昼休みになると田上と生徒はいつも会話していた。私が教室に入ると一人の男子生徒が田上に話かけていた。
 「先生は何で最近手作りの弁当じゃなくてお店の弁当なんですか?奥さんが弁当を作ってくれなくなったんですか?」
たしかに、言われてみれば田上の弁当はある時を境に手作りのものではなくなっていた。
 「いや、それはね…」
田上はばつの悪そうな表情をしていた。おそらく、説明をするのが面倒くさいのだろうと私は思った。しかし、今まで手作りだった弁当がある時を境にお店の弁当になったというのは多少不思議な話ではあったが、当時の我々はそれが何を意味するのかということにあまり気づけていなかった。弁当の話題はすぐに田上によって切り替えられ、次は体育の話題に移った。今後は保健体育で何をするのかといったことや、先日の末広の態度がどうだったかといったことを田上は自分の持つクラスの生徒たちに面白おかしく話していた。田上と生徒たちの会話は案外、楽しくてすぐに昼休みは終わってしまった。昼休みが終わった後に私は田上の弁当がどうして手作りのものではなくなったのかということについて少し考えてみたが結局わからなかった。生徒たちの間では奥さんにフラれたのではないかと言っている人間もいたが、誰一人として田上が奥さんと離婚したことなど信じてはいなかった。
掃除時間になって私は教室の掃除をしていた。いつもと変りなく雑巾をかけたり机を運んだりしていた。掃除時間が終わり、厠へ行こうとしたとき六組の富岡という人物が体を大きく振って踊っているのが見えた。
「た!た!田上!た!た!田上!た!た!田上、EVERYBODY」
軽快なリズムとともに繰り広げられるその踊りには明らかに田上に対する嘲笑の意が込められていた。私はかれらの踊りを動物園の象を見るかのような気持ちでみていた。この踊りはあとどのくらい続くのだろう、他にも面白い踊りはないのかといったことを期待しながら彼らのことを観ていたのだが、ダンスは直ぐに終わってしまった。私は物足りない気持にはなったがダンスをしている人間が誰であるかということに気づくと私の中にあった「もの足りなさ」はどこかへと消えた。
なんと、踊っていたのが最初の合宿で大暴れしていた“あの男”であった。校長の話のときに奇声をあげ、手拍子をしていたあの男であった。私はすぐさま彼のもとに駆け寄り、ファンサービスを求めるかの如く彼に名前を尋ねた。
男の名前は富岡というらしい。私は彼と話してみたい気持ちに駆られた。しかし、生憎彼と話せる共通の話題が見つからなかったためその日は自分の名前を富岡におしえると逃げるように教室へと帰った。

我々の学校は私立であったため、創立者記念日というのがあり、その日は休日であった。私は世間の人間が一生懸命働いている日に休むというのがかなり好きであったため、この日は朝からテレビゲームをして休日を満喫していた。兄も同じ学校に通っていたため、私と同じように休日を過ごしていた。堕落した生活は朝から夕方まで続き、日が暮れるのは早かった。17時を迎えたあたりで私は友人から一見のメッセージを受け取っているのを確認した。送られていたのは文字媒体のものではなくとあるニュースサイトのURLだった。

【北九州市の中学校教諭、田上明宏を公務執行妨害の疑いで逮捕】
田上容疑者は離婚調停中であり、若松にて警察官から職務質問を受けていた時に警察官を突き飛ばすなどした疑い…

私は目を疑った。友人から送られてきたニュースサイトにはあの田上の逮捕記事が載っていたのである。私は一瞬、高度なフェイクニュースであるなと思った。しかし、同じ学校の他学年の人間までもが田上の逮捕の話題をSNS上で話しているのを見て、直ちにフェイクニュースではないことがわかった。クラスのグループラインではこの事件に対して動揺を隠せていないものもいた。ある人間は公務執行妨害の「疑い」だからまだ大丈夫だろうなどという意味の分からない論理を謳っていた。そして、ここで謎は解けた。田上の弁当があるときから手作りのものでなくなったのは、やはり奥様との関係が切れたということだったというのが解だったのだ。
翌日、全校集会が開かれ、校長が直々に田上の件について生徒に説明をした。冷静を装った口調ではあったが言葉の節々から校長が動揺しているのが感じられた。生徒の中にも一日経っても状況を呑み込めていない人間が数人いた。私は特に何も思わなかった。全校集会のときも翌日の朝食をベーコンエッグにしようくらいにしか考えていなかった。すると、何故かわからないが急に腹が痛くなりトイレに駆け込むとバズーカみたいな下痢をした。罰でもあたったのだろうか。

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