メスガキムーブは最も誠実な愛情表現だ
※1
「【序章】メスガキ物語」は読み飛ばして頂いても問題ございません。
※2
当記事は過度に性的な表現を含みません。ご安心してお読みください。
【序章】メスガキ物語
「ざぁこ♡ざぁこ♡
あたしみたいなこどもに負けちゃうなんて弱ぁい♡
かわいそ〜な負け犬さん♡
一生あたしに勝てないまま生きていくんだね♡
ざぁこ♡♡」
少女は柔らかい日差しを背にし、僕に影を落とす。
思い出の中の彼女はいつもぷくぷくの頬を震わせ、にやにやと僕を見下ろしていた。
僕より何年も遅く生まれたクセに、僕の何倍も態度がデカい。
そんな彼女と過ごした少年時代だった。
◇
あれから十数年の月日が経った。
平日は仕事に精を尽くし、帰宅後と休日はネットサーフィン。
まぁ今時の平均的なサラリーマンといったとこだろう。
いつものようにインターネットを巡回していると「メスガキ」という単語を目にした。
メスガキとは、挑発的な態度を取る女児のこと……
この言葉を見て、真っ先にあの少女を思い出した。
SNS、イラスト投稿サイト、動画投稿サイト、掲示板……
メスガキはインターネットの至るところにいたが、どの子もあの子によく似ていた。
◇
「メスガキ」という言葉に出会ってから、彼女のことを思い出すことが多くなった。
彼女はあんな様子だったが、僕のことが嫌いだったのだろうか。
なぜあんな態度を取っていたのだろうか。
もう過ぎた日々のことだが、ぐるぐると考え続けてしまう。
彼女にとって僕って、一体なんだったんだろう。
そんなある日、たまには帰って来いと父から連絡があった。
確かに最近は正月もロクに帰っておらず、気づけばここ数年は親と顔を合わせていなかった。
そういえば、実家を出た以外は何一つ親孝行らしいことをしていない。
そんな罪悪感も後押しし、僕は久しぶりに帰省をすべく有給を取った。
◇
僕が育った田舎は、何年たっても変わらない。
通っていた中学校は合併で名前が変わったようだが、学舎や設備はそのままだ。
帰り道に寄ったコンビニも、ガマの穂を摘んだあぜ道も、あの時のままそこにある。
帰省というよりタイムスリップみたいだな、なんて思ったりもした。
実家に着くと、父も母も大歓迎してくれた。
一人息子が何年も帰らず相当寂しかったことが伺え、これからは毎年帰ってこようと静かに誓った。
◇
帰省というのは、暇を持て余すものだ。
最初の二日は”何もしない”を大いに楽しんでいたが、三日目、四日目にもなるとそうもいかない。
両親との三人麻雀にも飽き、五日目にして町へ出ることにした。
特に行きたい場所はないので、とりあえず駅前の本屋を目指して家を出た。
15分ほど歩いた所で、小綺麗な女子短大に差し掛かった。
今日は平日だということもあり、それなりに人の出入りがある。
女子短大生におじさんが混じるのは相当居心地が悪いので、歩みを早めようとした
その時
「ちょっと君!!!」
すらっとした長身でありながら、顔つきにあどけなさの残る。
そんな女性に呼び止められた。
「あたしの事忘れてないよね?」
忘れるわけがない。
あの子だ。
◇
子供の頃以来の再開を果たした僕たちは、寂れたカフェでいろいろな話をした。
彼女は高校卒業後に、保育士になるために短大に通っていること。
僕の両親と彼女は、今でも会うと挨拶する仲であること。
僕が遠くの高校に進学して、疎遠になってしまった時のこと……
あの頃は邪知暴虐の限りを尽くしていた彼女も、今ではすっかり大人っぽくなっていた。
人前であんなに大声を出して呼び止めておきながら、僕にタメ口をきくのは少し恥ずかしいらしい。
少年の僕だったら、目の前のいじらしい女性があの少女だとは夢にも思わないだろう。
そういえば、子供の頃の彼女はどうしてメスガキ然とした態度を取っていたんだろう。
この機を逃すわけにはいかないと思い、聞いてみることにした。
「君はあのころ僕の事を目の敵にしていたけど、僕のことが嫌いだったの?」
「え?」
「その割に今日は話しかけてくれたし、なんでかなって思ってさ」
「あたし……
キミの事、ずっと好きだったんだよ」
子供の時はぷくぷくだった彼女の頬が、慎ましい薄紅色に染まっていった。
◇
メスガキムーブ誠実性仮説
序論・背景
メスガキと一口に言っても、様々なタイプのメスガキがいる。
心から雑魚を蔑んでいるタイプ
雑魚より優位に立っている自分が好きなタイプ
雑魚が何故雑魚に甘んじているのか理解できず、ナチュラルに煽ってしまうタイプ
雑魚が好きだから意地悪しちゃうタイプ
等々。
私はメスガキに明るくないためこれくらいしか出てこないが、他にも色々なメスガキがいるだろう。
ちなみにこれ以降、
メスガキが行うような言動を「メスガキムーブ」
メスガキがメスガキムーブを行う対象の事を「雑魚」と呼ぶ。
ついてこられたし。
序章のストーリーに出てきたメスガキちゃんは、
「雑魚が好きだから意地悪しちゃうタイプ」
であるように思う。
このタイプのメスガキにとって、メスガキムーブはまごうことなき愛情表現と言えよう。
また「雑魚が好きだから意地悪しちゃうタイプ」以外のメスガキであっても、メスガキムーブは
「メスガキの中にある雑魚への潜在的な思いが顕在化した言動」
と言えるのではないかと考えている。
全ての言動は意識の上に成り立っているからだ。
そこで私は、
「メスガキムーブは最も誠実な愛情表現である」
という仮説を立てたので、順を追って説明していく。
◇
メスガキムーブ関連語彙の定義
この仮説を検証するにあたり、メスガキムーブの定義を定める必要がある。
当然ながら手元の国語辞典に「メスガキ」の項目はなかったので、ニコニコ大百科を参考にすることにした。
近年インターネットで用いられている「メスガキ」には、
2.の語釈が最も近いだろう。
ただしSNSや投稿動画などを見る限り、メスガキとされているキャラクターが性的な発言をしない場合もある。
また高圧的な態度を取る対象が、成人男性とも限らない。
よって当記事では
メスガキムーブの定義を
「高圧的に挑発するような発言。主に挑発対象の肉体的、社会的な弱点の指摘によってなされる。」
メスガキの定義を
「メスガキムーブをする架空の少女。」
とする。
メスガキムーブは要件に少女であることを含まないため、成人男性もメスガキムーブをすることはできる。
ただしメスガキは架空の少女であることが求められるため、成人男性はメスガキにはなれない。
成人男性が高圧的に挑発をした場合は「メスガキムーブをしている成人男性」となり、多くの場合、それはモラルハラスメントである。
子供だったらモラルハラスメントにならないのか、というとそうではない。
何歳であろうと、人を傷つけたらハラスメントになる。
メスガキムーブと加害性は切り離すことができない。
じゃあメスガキムーブなんて認められるべきではないだろう。
という意見も最もである。
しかしメスガキムーブの是非については、当記事では議論しない。
ついでに、「誠実性」という言葉についてもここで定義しておこう。
当記事での誠実性は
「偽りがなく、大きな気持ちを向けているさま」
と定義する。
複数の語釈を組み合わせて主題に合うように独自解釈した物なので、この定義は外で通用しないものと思っていただきたい。
定義を明確にしたとて愛情表現の誠実さを比較するのは難しいが、ここでは
「自分の気持ちとの相違が少なく、よりドラスティックなもの」
を誠実な愛情表現とする。
◇
メスガキムーブと世話焼きの類似性
先ほど提唱した「メスガキムーブは最も誠実な愛情表現である」
という仮説を、「メスガキムーブ誠実性仮説」と呼ぶことにする。
ここでは、メスガキムーブ誠実性仮説の提唱に至った経緯を述べておく。
私は正直、メスガキの気持ちが少しわかる。
私は他人が自分より劣っている点を有していると安心してしまうし、自身の存在が許されているような感覚になる。
嫌いな相手だけではなく、むしろ相手を好きであるほど自分の優位性を認めたいと感じる。
相手より相対的に優位であることにより、相手にとって自分が価値のある存在であることを実感したいのだ。
メスガキは相手の弱点に対して高圧的な態度を取るが、これは相手の短所を指摘することで、相対的に自身が優位に立とうとする行為とも取れる。
アルフレッド・アドラーの言葉に
「世話好きな人は単に優しいのではない。
相手に自分を依存させ、自分が重要な人物であることを実感したいのだ。」
というものがある。
メスガキと世話好きな人は、態度だけを見ると真逆なように感じる。
しかし相手に自分の価値を認めさせたいという点では、あながち遠くないのではないだろうか。
であれば、優しさで下心を覆い隠している世話好きな人よりも、メスガキの方が誠実ではないかと思ったのだ。
◇
愛情の根拠
人は何の見返りもなしに人を愛するのは難しい。
ほとんどの場合は、愛する見返りとして相手からの愛を求める。
そうなると、相手が自分を愛してくれるかどうかの見積もりを取らなければならない。
企業が人にお金を貸すときは、相手に返済能力があるかどうかを職業などから審査する。
愛情もそうだ。
相手が愛を返してくれるかどうか、相手のことをよく見て審査する。
ここで「愛情を返してくれそうだな」と感じると、
晴れて心置きなく相手を愛することができるのだ。
審査の内容は人それぞれだろうが、
「私はあの人よりこんなところが優れているから、あの人は私のことを愛してくれるかもしれない」
と考えるケースは多いように思う。
例えば
「あの人の顔で私みたいな美少女に言い寄られたら嬉しいだろう」や
「繊細なあの子には包容力がある俺みたいな人がいいだろう」など
こういったケースがそれにあたる。
こうなると、
「相手を愛しているのは愛情を返してくれそうだから」
「愛情を返してくれそうなのは、自分が相手より優位だから」
ということになる。
つまり自分の愛情の根拠が、自分の長所、ひいては相手の短所になるのだ。
自分の愛情が相手の短所に直結すると、無意識のうちにメスガキムーブはそのまま愛情表現になる。
前章でメスガキムーブと世話焼きは似ているという話をしたが、
「あの人は私がいないとダメなんだから……」
という世話焼きさんの常套句と
「ざぁこ♡私に負けるなんてよっわ♡」
というメスガキの常套句は
含まれる愛情の種類がとても似ているように感じる。
両者ともに相手の短所の指摘がそのまま愛情表現になっているのだ。
この時発言者本人が「愛情を表現するぞ!」と思っていなくても、心のメカニズムの中で愛情が裏返り、こういった発言に繋がるのではないかと思う。
人々が愛を囁く時は、想い人が如何に素晴らしいかを口にする。
しかし、口にした長所は本当に人々の愛を突き動かしているのだろうか?
美輪明宏氏が故・三島由紀夫氏に言い寄られた際、以下のように返答したという逸話がある。
真意や真偽はいったん置いておいて、「かわいそう」というのは確かに十分に愛情の原動力になりうると思う。
相手を見下している罪悪感に苛まれつつ、その優越感は確かに愛を燃やす。
その事実が嘘ではない以上
「私に負けちゃうなんてかわいそ~♡ざぁこ♡」
という発言は、この上なく誠実な愛情表現ではないだろうか。
◇
メスガキムーブ誠実性仮説の概要
ここまでつらつらと書いてしまい、仮説の構造がかなり不明瞭であったように思う。
ここでメスガキムーブ誠実性仮説についてまとめておこう。
まずメスガキムーブの背景には、以下のような思考があるのではないかと考えた。
愛する人には愛されたい。
自分を愛してくれる人を愛したい。
以下の理由より、自分より劣位な相手は自分を愛してくれるはずだ。
相手にとって価値があれば、相手は自分を愛してくれるはずだ。
相手より優位に立っていれば、相手は自分に価値を認めてくれるはずだ。
自分より劣位の相手を愛そう。
もしこのような思考を辿って人を愛した場合、相手の短所がそのまま自分の愛情の根拠になる。
しばらく前に誠実な愛情表現を
「自分の気持ちとの相違が少なく、よりドラスティックなもの」
とした。
相手の短所をそのまま指摘するのは非常に素直かつドラスティックであり、かなり誠実な愛情表現と言える。
他の表現方法や思考回路を全て検証することはできないが、これを超える誠実さは中々表現できないのではないだろうか。
ここで大事なのは、価値は様々な軸のパラメーターによって形作られており、人によって考え方が全く異なるということである。
仮説を単純化するために優位・劣位という二元的な表現を用いたが、人間の価値というものはそんな直線状の尺度で測れるものではない。
直接的な尺度なのであれば、優位にある人間にとって劣位にある人間には全く価値がないことになってしまう。
優位・劣位、長所・短所なんて言葉は、限りなく主観的な言葉だ。
世の中には対等な関係で愛し合っている人間関係がたくさんあるので、直線的な価値体系は成り立たないはずだ。
そもそも、人間としての価値の有無が愛情に直結するわけではない。
実際にはもっと複雑で繊細な思考の上で人は愛し合っている。
しかし人間は主観の上でしか物事を見ることができないので、愛する人相手であっても
「ここは勝ってるな」
「ここは負けてるな」
などと考えてしまう。
メスガキムーブ誠実性仮説は、人間のそういった愚かさを前提にした仮説である。
◇
想定される反論への回答
キャベツ壁紙仮説
「メスガキが全員雑魚の事が好きとは限らないし、メスガキムーブは必ずしも愛情表現ではないだろう」
という声が聞こえてきそうだが、それは至極真っ当な指摘である。
実際にネット上のメスガキコンテンツは、雑魚に対する好意が無いように見受けられるものがかなり多い。
注意していただきたいのは、メスガキムーブ誠実性仮説ではメスガキムーブの「愛情表現の誠実性」という一面のみについて述べているという点である。
つまり、メスガキムーブの
愛情伝達率
加害性
などについては触れないということだ。
「罵ってばかりいても愛情は伝わらないだろう」
「メスガキムーブによって受ける心的ダメージを無視するのか」
という議論もあるだろうが、今回は一切度外視する。
「キャベツは壁紙として最も優れた素材である」という
「キャベツ壁紙仮説」を立証するとして
「キャベツは食べられるのに壁紙なんかにしたらもったいないだろう」
「キャベツはロールキャベツにするのが最も適した使い方だ」
などの議論は無意味であるのと同じだ。
確かにメスガキムーブには愛情を孕まない場合がほとんどかもしれないし、愛情表現としてメスガキムーブは不適切なのかもしれない。
それでも「メスガキムーブによって愛情をかなり誠実に表現できるのでは?」という仮説は成立すると思う。
◇
尊い愛
「そもそも仮説の前提が全く違っているのではないか。愛情は尊敬できる相手に抱くものだ。」
という声も聞こえてくるようだ。
メスガキムーブ誠実性仮説は
「相手の愚かさや醜さを愛しているならば、それを伝えるのが誠実さではないか」
という仮説なので、尊敬から来る愛情を抱いているのならそれを伝えればよいという姿勢である。
そのため「尊敬できる相手に愛情を抱く」という現象は、当仮説と何ら矛盾しない。
ただし個人的に「愛情は尊敬できる相手に抱くものだ」という意見には些か懐疑的である。
先に美輪明宏氏の発言を引用した記事の中でも、同氏は
「尊敬するような人は恋愛の対象にならない」
と述べている。
もちろん愛する人には少なからず畏敬の念を持つだろうが、それが愛情の前に出てくるのは綺麗事が過ぎるのではないかと思う。
また尊敬できる相手を愛することが、自分を愛してくれる相手を愛することよりも尊いということは断じてない。
どんな理由の愛にも多少の打算はつきものだし、貴賤はないのである。
ちなみに美輪氏の例は恋愛に限った話だったが、メスガキムーブ誠実性仮説は全ての人間関係に適用できると考えている。
◇
総括
ここまで読んでくれた方は今、メスガキの事をどう思っているのだろうか。
私は最初、メスガキが全く好きではなかった。
強い言葉を使う人が苦手だからだ。
現実世界でメスガキムーブをカマしてくる人がいたら、真っ先に距離を置くだろう。
愛があろうが何だろうがハラスメントはハラスメントだ。
メスガキについて7000文字ほど語った今ですら、メスガキの事を手放しに愛しているとは言えないと思う。
しかしメスガキを通して、自分の持つ愛情について再考できたと感じている。
これはメスガキという概念とのコミュニケーションとも言えよう。
◇
私はこれまで、愛情とは何か、メスガキムーブとは何か、についての一切を、己の主観だけを頼りに書き殴ってきた。
愛情ついて深く思慮された方、メスガキを愛する方にとっては見るに堪えなかったかもしれない。
もし気分を害していたら深く謝罪したい。
これを機に、メスガキコンテンツにたくさん触れていきたいと思う。
もし私を許してくれるなら、
あなたにとっての「メスガキ」、
あなたにとっての「愛情表現」
について聞いてみたい。
◇
参考
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?